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「社長の椅子が泣いている」(加藤仁 講談社(2006年))の残りを一挙にご紹介
します。
ヤマハにおける博のキャリアの前に大きく立ちはだかり、苦しめ、ヤマハの経営を、
一時危うくさせた元凶が、「川上源一」と、その息子の「川上浩」なる人物です。
創業家の山葉一族の社長が二代続いた後、労働争議で危うくなった経営を立て直す
ため、住友電線取締役から、三代目社長として送り込まれたのが、源一の父の嘉市で
す。嘉市の座を世襲した源一は、河島博が入社当時、既に4代目社長として経営にあ
たっていたことになります。
源一の父の嘉市という人物が、かなり特異な人物だったようです。
東京帝大の銀時計組というのが何よりの誇りであったようで、自伝の四分の三を小
学校時代から、銀時計に至るまでの学業成績の記述で延々埋め尽くしていたというの
ですから、、、
一方で、人間の善悪、性格は、ことごとく顔に表れるという「骨相学」の信奉者でも
あり、また、「丸い竹も四角い枠に嵌めれば四角くなるように、人間も教育次第でいか
ようにでも変えられる」という一種の「優生思想」の持ち主でもありました。
そんな父親の子供に限って、「出来が悪い」のも世の習い、というか皮肉なもの。
何かにつけて、父親と比較され、プレッシャーをかけられる毎日。期待に応えられな
い不甲斐なさ、、、、、、、銀時計の父に対して、高等商業卒業がやっとの自分、、、、それ
やこれやが、源一の人格形成を大きく歪め、劣等感の裏返しのような尊大で、独善的
な人物を作り上げてしまった、と言えそうです。
それでも、社長の息子だからということで、世襲で社長になれるのが、日本的経営。
1950年、社長に就任してからは、それまでの鬱屈感、劣等感を吹き払うかのよう
に、ワンマン経営に乗り出します。
社内での呼び名は、「源さま」、そして、会社の役員、幹部といえども「家来」と呼ん
で憚らず、その独裁ぶりは、俗に「川上天皇」とも呼ばれました。
とはいえ、河島の入社当時、源一は遠い存在。常に自分の頭で考え抜き、行動するこ
とを信条に、支店、本社営業本部の責任者として、のびのびと経験を積み重ね、実力
を蓄えていきます。
怜悧な経営手法だけでなく、社員とのコミュニケーション、人使いの妙といったワザ
も自分のものとする一方、広く音楽業界、ミュージシャン、アーティストたちとの人
脈を広げ、大きな営業成果につなげる自在な経営も河島一流のもの。
彼自身の大きな飛躍のきっかけとなったのが、6年半に及ぶアメリカ現地法人の責任
者としての経験でした。源一の思いつきのような発想から出たアメリカ進出でした
が、言葉の壁を乗り越え、ゼロからの楽器マーケットの開拓、当時、既に手がけてい
た二輪、スノーモビルの販売などに腕を揮い、利益面で日本の本体をさせる支えるま
での規模に押し上げます。
一方、源一の多角化路線は、高度成長路線という追い風と、優秀な技術者、スタッフ
に支えられて、一旦、成功は収めていたものの、独裁体制の歪と社内抗争の激化、戦
略の行き詰まりなどを露呈し、経営は大きく傾くことになります。
源一の思いつき経営と社内政治に翻弄されながらも、真摯に、仕事に取り組んだ河島
は、紆余曲折を経て、77年、源一のあとを継いで、第5代目社長に就任するのです。
「足元の明るいうちにグッドバイ」の名言とともに、会長に退いた源一ですが、もと
より、グッドバイするつもりは、さらさらなく、当然のごとく、院政を敷きます。
いよいよ、社長として、これまでの集大成として、思う存分、腕を揮えるはずの河島
の前に立ちはだかる会長という存在。
既に入社していた息子の浩を盛り立てろ、成果を挙げさせろ、早く常務にしろーー
親バカ丸出しの会長の圧力と戦いつつ、懊悩しつつも、全力で経営に当ります。
ところが、社長就任から、3年半。河島は、社長を解任され、源一会長が、社長に復
帰するという驚天動地の事態が起こります。
順調に経営を立て直しつつある中での、クーデター的な社長解任騒動は、マスコミで
も大きく取り上げられました。源一がいかに取り繕おうとも、このままでは、河島政
権が長期化し、息子の社長の目がなくなる、との源一の強い危機感が取らせた見境い
のない卑劣な手段でした。
胸の内の思いは、すべて飲み込んで、河島は退任します。
83年に予定通り息子の浩を社長に据えますが、彼は、父親ほどのカリスマ性もなく、
典型的な二代目(嘉市から数えれば三代目)というタイプ。
著者も、浩について、周辺を取材していますが、その業務遂行や事務処理の能力を評
価したり、人柄に共感する声は全くなかったというのですから。
技術者のこんな声があったという。「本人は、いっぱしの技術者のつもりでいる。耳
(音感)もいいと思っている。アメリカ現地法人のマネージャーを前に、「アメリカ人
は耳がわるい。教育しなくちゃいかんなあ」と真顔でいう。傲慢にして、軽卒ですよ。」
また、ヨーロッパ在住の日本人が、浜松の本社を訪れた時、浩は、「ぼくは6回も7回
も渡仏してるのに、ミッテラン(当時の仏大統領)は何回日本に来たの?」と公言し
たという。いったい自分を何様と思っているのか、その場のヤマハ関係者は二の句を
つげなかったという。
「俺の会社」を息子に継がせて何が悪い、と思い込んでいる父親と、甘やかされ放題
で、社長になるのが当然だと思っている傲岸不遜な息子ーいかにもの日本的風景にう
んざりします。
さて、親の七光りで社長にはなったものの、案の定、経営手腕もなく、人望もないま
まに、社内のモラルは低下する一方。遂には92年、労働組合から、「出処進退申入書」
を突きつけられる事態となり、浩は退任を表明します。三代にわたる世襲劇は、その
後もヤマハの経営に影を落とし、再建まで、約10年を要することになります。
社長を退任した河島ですが、ダイエーの中内社長に見込まれ、副社長として迎えられ
ます。そして、得意の経営手腕で、見事「V字改革」と呼ばれる業績回復を成し遂げ
ます。
また、その間、倒産したミシンメーカーのリッカーの再建に取り組み、見事再生させ
るなど、華々しい成果を挙げるのです。
しかしながら、優秀な側近を次々と使い捨てにし、息子への世襲に突き進む中内流に
は、所詮容れられず、97年に、副会長職を最後に、退任し、07年に亡くなってい
ます。
経営能力、人格、識見ともに極めて優れたものがありながら、世襲という大きな壁と
二度にわたり全力で戦わざるを得なかった運命の皮肉と不条理。
人間の品性、品格とは何か、人生とは何か、運命とは何か、、、、そんな重いことを考え
させる極上の一冊です。
さて、長らく、「独断偏見読書録」をご愛読いただき、
ありがとうございました。
既報のとおり、読書録を中心とした書き込みは、今回をもって、
打ち切りとさせていただきます。
これからは、皆様の身近な小ネタ、ニュース、役立ち情報などを、
「気軽に」そして「自由に」書き込んでいただき、このコーナーを
盛り上げていっていただければ幸いです。
私も、気が向いた時には、お気軽ネタなど提供して、
盛り上げに一役かえればと思っています。
引き続きよろしくお願い致します。
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