曹洞宗にもの申す
曹洞宗宗門関係者の皆さんへ
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地の声氏へ
投稿者:
宗侶
投稿日:2009年 9月21日(月)17時47分16秒
了解しました。
確かに当該記事を見ずしてコメントしたゆえ、ポスターの件に関してはもうこれ以上何も申しません。
また、今回の書き込みの意図も理解しました。
但し、私の前回のコメントをご確認いただければ主旨はお分かりだと思うのですが、この件を半ば強引に宗門の「人権・平和・環境」の問題に絡めて説くその手法に関して違和感を感じただけです。
もちろん底辺部分においてその指摘は核心を突くものかもしれませんが、私個人はある種の意図的な論理の飛躍を感じたまでです。
宗門が行う全ての事業にこの手法を適用してしまうと、教化事業の全てが硬直化してしまう恐れがあると危惧しました。私個人はその手法をある種の免罪符としてしまうリスクを考慮したまでです。
それに、「無意味な印刷物は環境破壊にもリンクする」ことは当然のことですが、誰がその事業を「無意味」だと判断するのかには慎重であるべきでしょう。国政の場で議論が続いている「人権擁護法案」の問題の核心も結局はそこに帰結しますよね。
よって、私の真意は「クレーマーという一語で批判を切り捨てる」ものでもなく、「一部の権力者にいいなりの宗門」を目指すものでも決してありません。その批判の手法に対する検証を促す意図のあるものです。その点だけはご理解下さい。
>地の声氏の手法に思う
投稿者:
地の声
投稿日:2009年 9月21日(月)16時40分13秒
>仮にも葬儀やご法事などで寺院に不特定多数の人が集まる現実がある以上、地の声氏の仰
る「個々人の意識に関わる問題」を啓発する意味で、宗門が「感染予防ポスター」の作製・
配布を行うことぐらいは許容されて然るべき事業ではないでしょうか
中外日報の写真を見ましたか?坊さんがウガイをしています。そのまま見れば仏事に集まる
不特定多数を対象としているのではなく、坊さんのインフルエンザ対策ポスターに見えます。
私はクレーマーと呼ばれても結構です。いつも曹洞宗批判をしていますから。もうすこし
まともな仏教団体になってもらいたいという思いが強いからですが。しかし、クレーマー
という一語で批判を切り捨てると宗門はいったいどうなりますか?まるで進歩なきものと
なり、あるいは一部の権力者にいいなりの宗門となるのではありませんか?「人権・平和・
環境」問題はまだその緒についたばかりです。もっと真剣に取り組まねばならないという
意味で、あえて例えとして書きました。
ところで、全国の寺院に配布するとのことですが、その印刷費及び送料はどれくらいかか
るのでしょうか。つまらない「伝道ポスター」が最近見られなくなってほっとしていた矢
先、これですからね。宗費の浪費のみならず、無意味な印刷物は環境破壊にもリンクし
ます。
http://www2.rocketbbs.com/625/chinokoe.html
地の声氏の手法に思う
投稿者:
宗侶
投稿日:2009年 9月21日(月)15時03分39秒
>それを曹洞宗が啓発してくれるというわけなのだろうが、はたしてそんなことまで仏教教団がやるべきことなのだろうか?これは厚労省やら保健所の仕事ではなかろうか。
う〜ん・・・そこまで言ってしまってよいのでしょうか?
私はそこまで言うのは・・・ちょっと言い過ぎだと思いますけどね。
仰りたい事の意図は分からないまでもありませんが、仮にも葬儀やご法事などで寺院に不特定多数の人が集まる現実がある以上、地の声氏の仰る「個々人の意識に関わる問題」を啓発する意味で、宗門が「感染予防ポスター」の作製・配布を行うことぐらいは許容されて然るべき事業ではないでしょうか。同じく地の声氏が指摘をする「貴重な宗費の浪費」とまで断罪してしまうのは・・・個人的にあまりにも酷のように感じます。
確かに「仏教教団がやるべきこと」とは思わずとも、別に「(既述したような現実を抱える)仏教教団でやってもよいこと」ぐらいには感じますね。そこまで色めき立つ問題でもないでしょう。
逆に、私が個人的に気になった点は、この「感染予防ポスター」の件を半ば強引に宗門の「人権・平和・環境」の問題と絡めて説くその手法に関してです。
恐らく地の声氏は、この三大スローガンが現実的に機能しない要因のひとつに、現在の宗門の体質にあるとお考えなのでしょうが、その体質を批判する手法として今回のポスターの件を引き合いに出すのは多少無理があるものと感じます。そこまで強引に因果関係を飛躍させてしまうと・・・多少言葉が過ぎますが、一種のクレーマー的な姑息な手法に映ってなりません。
今の宗門の体質に批判があるのであれば、そういう誤解を招くような手法を用いずに、もっと正々堂々と正攻法で責められたら如何でしょうか。正直私にはそのように感じてしまいました。
以前どなたかも指摘をされていたように、そういう手法は地の声氏本人にとってもマイナスでしょうし、その手法を通して相手に与える嫌悪感から、前向きな議論にかえって水を差す結果となり兼ねません。その点を危惧するのであります。
以上、失礼を承知で書き込みさせていただきましたが、真意のほどをご理解いただきたくご高覧願います。
因みに私はその事業に携わった宗務庁内部の人間(職員)ではなく、あくまでも一般寺院の宗侶であります。あくまでも客観的な立場で意見申し上げたつもりです。
お笑い曹洞宗
投稿者:
地の声
投稿日:2009年 9月21日(月)12時41分31秒
「感染予防ポスター」なるものを曹洞宗が製作し、全国の寺院に配布するという記事が
『中外日報』(9.19)に載っている。はっきり言ってのけぞった。一体どんな意味で、
このようなポスターを作ったのかその真意が知りたい。衛生意識の向上、風邪予防は
個々人の意識に関わる問題で、それを曹洞宗が啓発してくれるというわけなのだろうが、
はたしてそんなことまで仏教教団がやるべきことなのだろうか?これは厚労省やら保健
所の仕事ではなかろうか。
「一人一人が感染防止対策を自覚を持って自ら実践することが必要」と宗務庁は話して
いるようだ。文中「感染防止対策」を「人権・平和・環境」とすれば、意味のあること
だった。こんなことに貴重な宗費を浪費することは止めてもらいたい。
http://www2.rocketbbs.com/625/chinokoe.html
この掲示板でのくだらない足の引っ張り合いの喧嘩は見苦しい
投稿者:
風林火山八王子
投稿日:2009年 9月20日(日)23時50分15秒
編集済
この掲示板でのくだらない足の引っ張り合いの喧嘩は見苦しいからやめてほしいと思います。
伏字をすると喧嘩が起こりやすい。
真実に行き当たる前に、想像から相手を非難だけすると喧嘩になりやすい。
本当に曹洞宗が改善できる論争ならば幾らでも真実追及のための意見交換はしていただきたい。
しかし、相手を汚い言葉で非難だけするのであれば、他の場所で、お互いにメールアドレスを交換し、そこでやっていただきたい。
HNだと自分の正体がわからないからといって強気になって言い争うような投稿は見たくもありません。
お互い、冷静になり、進歩的な大人の意見交換と情報発信を望みます。
(無題)
投稿者:
Y部長の親派
投稿日:2009年 9月20日(日)01時43分37秒
フロント企業=暴力団・フロント企業=悪とは限らない。
同和系に問題があるとは、誰も言っていない。
同和団体にもフロント企業があるだろうし、同じく右翼団体にもあるだろう。
何故、あの文章の内容から、同和に壁を設けていると解釈するのか、理解に苦しむ。
?マークは免責の為?誰も免責して貰おうなどとは、思っていない。
●●●興産という企業が、恐らくは同和団体の関連企業だから、その様に記しただけだ。
真実を知りもしない者が、何を言う。
何が壁だ。
壁をつくること、Y部長の親派に是非答えていただきたいこと
投稿者:
曉雲
投稿日:2009年 9月19日(土)18時16分23秒
「Y部長の親派」の投稿に、咽喉につかえるものがある。
「同和系?フロント企業」とある。フロント企業とは、企業舎弟であり、暴力団の資金源となっている企業であって、排除すべき対象である。
また、並列して「同和系?」とある。
同和系であることに何か問題があるだろうか。何も問題はありはしない。
「同和系」と排除すべき「フロント企業」とを続け、同和系に対し理由の無い壁を設けているのは何故だ。明らかにされたい。
「?」をつけてあるが、これは、どういう意味でつかわれているのだろうか。?を付ければそれで免責されるものでない。
壁を設けることが道元の同時の教えに適うことか、在俗の信徒として、おそらくは出家者であろう「Y部長の親派」氏に問う。
(無題)
投稿者:
宗侶A
投稿日:2009年 9月18日(金)09時10分4秒
Y部長は、宗議になられてから、いや内局に入られてから変わってしまわれましたね。
昔とは人相が違います。
「皆さん揃って、潔く出直されたら如何でしょうか」同感です。
(無題)
投稿者:
Y部長の親派
投稿日:2009年 9月18日(金)04時55分51秒
一連の荼毘塔の問題に際して、Y部長と同和系?フロント企業●●●興産との目論見は水泡に帰したようですが、その後の動きは如何でしょうか?
議会前に仮契約を結んだとか、結んでないとかも耳にしましたが、あのような結果になった事で、●●●興産からのクレーム処理に追われているのではないかと、心配しております。
しかし、それが事実なら、随分とダーティーなんですね、内局の方たちは。
ついでに、Y部長の奥方のご活躍も、京都では評判です。
Y部長親派の私としては、「皆さん揃って、潔く出直されたら如何でしょうか」と、声をかけてあげたい思いです。
ネタですよね?
投稿者:
内外野
投稿日:2009年 9月17日(木)17時32分28秒
編集済
和尚Aさんと有権者さんの発言は、ネタとして提供したものではないでしょうか。
失礼ながら、問題を真剣に考えての発言とは思えません。
カンパを私有化するにあたって、自分の都合や解釈によって正当化したり、
被疑者だからこそ、洞門の代表者たるべきであるという理論は。
震災ボランティアにしたって、交通費も補助が出ればいいほうで自腹が普通ですよ。
もしそうであるとするならば、「坊主の常識、世間の非常識」に他なりません。
有権者さんへ
投稿者:
???
投稿日:2009年 9月17日(木)12時34分10秒
あなたのような人がいるからいつまでたっても曹洞宗がよくならないのです。
あなたは、だれの回し者ですか?いいかげんにしてください。
恩金を出した者、裏切られた有権者、被告の下で働いて、責任をおっつけられてトバされた本庁職員の気持ちがあなたわかりますか?
世間一般常識が全く欠落してるあなたのような人にはわからないでしょうね。
恥をしりなさい。
選挙について
投稿者:
有権者
投稿日:2009年 9月17日(木)12時29分18秒
激烈な衆議院選挙が終わり、いよいよ次は私達の番ということで宗議選ですね。
今回の注目はどこでしょう?
不正会計事件の被告の一人は宗議である。
本来ならばとっくに更迭、職を辞していてもおかしくないはずだ。
今回の選挙においては、被告を宗議から外し、不正会計事件を風化させようという魂胆が随所に見え隠れする。
だが、私はあえていう。ぜひこのまま被告を宗議にしておいていただきたい。
バカなことを言うな、というおしかりの声はごもっとも。
しかし、被告が宗議でいる限り、私達、そして世間は不正会計事件を決して忘れない。
恥部を晒し続け、臭いものに蓋をしない。白い眼で見続けられることは必要。こんな荒療治をしないとまたこの種の事件は再発する。
被告にとってはこれ以上の屈辱はないかも知れんが、それは身から出た錆。
我が宗派の未来を本気で考えて、有権者の皆さんにお願いする。
和尚Aさん
投稿者:
宗侶
投稿日:2009年 9月16日(水)21時27分7秒
和尚Aさんへ
前回に引き続き意見交換ができますこと、これも何かのご縁を感じます。いずれも宗門のことを思っての議論と前向きに受け止めていければと考えます。
>ひょっとすると、私の感覚が間違っているのかもしれませんが・・・。
いえいえ、この種の問題は人それぞれの価値観により違いが出てくる部分でしょうから、単にどちらが正しくてどちらが間違っているという次元の問題でもないと考えます。
ただ、公金管理も含めた宗門の改革を訴えて寄せられた浄財なので、その使途に関してはある種のモラルが問われて当然でしょう。
それを前提に申し上げれば、今回は懇親会自体の是非が問題なのではなく、懇親会費を必要経費として浄財から支出すべきか否かといった点が問われるものと思います。
つまり、浄財を預かる側の姿勢(モラル)が問われる問題として考えるべきでしょう。
私が高倉氏の立場であれば、宗門改革を訴えて寄せていただいた貴重な浄財を、安易に懇親会費として計上することなど決してできません。
それこそ、改革の理念や会の存続をも脅かし兼ねない誤解を周囲に与えるものと危惧します。
そのモラルの確立が徹底されていれば、今宗門で抱える殆どの問題は起こらなかったのではないでしょうか。
>全曹青であれ何であれ、どんな会でも執行部の役員は、宗門のために無償で働いているからです。それなのに、自分たちの食事代まで自腹を切らねばならないと言うならば、誰が役員を引き受けるでしょうか?
これまで述べてきたような理由により、私は和尚Aさんの指摘をする食費と懇親会費をここで混同させてしまうことに違和感を覚えます。
まさにこの両者を混同してしまっては、悪意をもった会計操作の余地を公然と与えてしまう結果になりかねません。
ましてや、何を目的として寄せられた浄財であるのかという自覚があるなら、私であれば食事代とて浄財から経費として支出できません。
それこそ食事代くらいであれば、高倉氏の言う「私が提供致しました資金」から捻出するように心掛けますね。心ある有志は、その姿を見て自主的に手弁当で集うようになるでしょう。
その出費さえも惜しいというなら、あういう形で寄付など募りません。ましてや懇親会費というなら尚更です。これも一種のモラルとして必要な覚悟なのではないでしょうか。
>「懇親会費」も使い方が肝心だと思います。言うまでもなく、会の浄財を私物化するような無駄遣いや何に使ったかわからないような不透明な会計は論外です。あってはいけません。
>不必要なところに不必要な使い方をするから、問題になるのです。
私などは、他の方も同様の指摘をされているように、今回の懇親会費として計上された金額自体も、和尚Aさんの言う「会の浄財を私物化するような無駄遣いや何かに使ったかわからないような不透明な会計」に抵触し、「不必要なところに不必要な使い方をする」問題のようにも感じられるのです。
会費制というのは、そういう誤解を周囲に与えないためにも講じられるべき危機管理のレベルの問題だと思います。
そういった危機管理の意識が徹底されていれば、今宗門が抱える問題は殆ど回避できたのではないでしょうか。
>懇親会費も使い方次第だと思います。たとえ酒の席でも、本気で議論したことを実践して、宗門がよくなるのならば、私は大いに使っていただきたいと思います。
これも価値観の違いかもしれませんが、それを許してしまっては際限なく会計の不正は可能となるでしょう。この程度の意識は決して周りから指摘を受けて改める問題ではなく、自発的に慎むべき問題つまり自覚の問題なのだと思います。
ましてや、「それが度を越えた無駄遣いになるのならば、いけませんが・・・。」というなら尚更自らを律する姿勢が求められるでしょう。
その姿勢を自らに課してこそ、我々はもの申す立場になれるのだと思います。
お金の使い方
投稿者:
和尚A
投稿日:2009年 9月16日(水)16時44分50秒
編集済
ひょっとすると、私の感覚が間違っているのかもしれませんが・・・。
「懇親会費」も使い方が肝心だと思います。言うまでもなく、会の浄財を私物化するような無駄遣いや何に使ったかわからないような不透明な会計は論外です。あってはいけません。しかし、そうしたお金の使い方に関する問題の反省としての姿勢なのか、すべてにおいて会費制にするというのは、私はあまり賛成できないのです。というのは、全曹青であれ何であれ、どんな会でも執行部の役員は、宗門のために無償で働いているからです。それなのに、自分たちの食事代まで自腹を切らねばならないと言うならば、誰が役員を引き受けるでしょうか?そこを十分に議論しないまま、飲み食いの経費はすべて個人負担としてしまうのは、あまりに極端過ぎるように思います。
要は、必要なところには必要なお金を使えばいいのであり、不必要なところに、不必要な使い方をするから、問題になるのです。「お金が入るのはうれしいが、出るのは怖い・・・。」そんな何かに取り付かれたような感覚でびくびくしても、お金が溜まるだけです。そして、それを受け継いだ人がどんなに重い責任を負わされるか・・・。懇親会費も使い方次第だと思います。たとえ酒の席でも、本気で議論したことをその会が実践して、宗門がよくなるのならば、私は大いに「懇親会費」に使っていただきたいと思います。それが度を越えた無駄遣いになるのならば、いけませんが・・・。往々にしてそうなる傾向があるのでしょうね・・・。だったら、お坊さんとしてのお酒との付き合い方が問われるのではないかと思います。
お金の使い方
投稿者:
和尚A
投稿日:2009年 9月16日(水)16時44分50秒
ひょっとすると、私の感覚が間違っているのかもしれませんが・・・。
「懇親会費」も使い方が肝心だと思います。言うまでもなく、会の浄財を私物化するような無駄遣いや何に使ったかわからないような不透明な会計は論外です。あってはいけません。しかし、そうしたお金の使い方に関する問題の反省としての姿勢なのか、すべてにおいて会費制にするというのは、私はあまり賛成できないのです。というのは、全曹青であれ何であれ、どんな会でも執行部の役員は、宗門のために無償で働いているからです。それなのに、自分たちの食事代まで自腹を切らねばならないと言うならば、誰が役員を引き受けるでしょうか?
要は、必要なところには必要なお金を使えばいいのであり、不必要なところに不必要な使い方をするから、問題になるのです。「お金が入るのはうれしいが、出るのは怖い・・・。」そんな何かに取り付かれたような感覚でびくびくしても、お金が溜まるだけです。そして、それを受け継いだ人がどんなに重い責任を負わされるか・・・。懇親会費も使い方次第だと思います。たとえ酒の席でも、本気で議論したことを実践して、宗門がよくなるのならば、私は大いに使っていただきたいと思います。それが度を越えた無駄遣いになるのならば、いけませんが・・・。
「400万円」の使い途について
投稿者:
風林火山八王子
投稿日:2009年 9月16日(水)14時13分6秒
千代川氏の責任感とご尽力により、以前から指摘のあった『「400万円」の使い途について 』高倉克宗氏本人からの報告書があったことは何よりだったと思います。
しかし、その中身を拝見し、前記お二方が指摘しておられる様に、詳細を見るにあまりにも
自己矛盾になった内容であると思います。
懇談会費という項目(内容も言うに及ばず。)が有ることに怒りすら覚えます。
これらの詳細な領収書はあるのでしょうか?
また、自分の勝手な解釈での決算報告なのでしょうか?(第三者の監査を得たものなのでしょうか?)
また、
>尚、私が提供致しました資金については、支出に計上しておりません。
とありますが、会が正式に活動しているのであれば、正々堂々と掲載するべきであり、
しなければ為らないのではないでしょうか?
やはり、お金の使い方からして、改革を訴えて活動をされたお坊様も一般社会において活動している組織運営の考え方と違うことがこの事からしてもはっきり致しました。
根本は、「坊主の常識・世間の非常識」が変わらなければ、何も変わらないのでしょうか?
私も感想をひと言
投稿者:
内外野
投稿日:2009年 9月16日(水)13時24分8秒
千代川師と高倉師と袂を別った経緯は知らないが、この報告書を見てある意味納得した。
他からも指摘する声があり、今更ながらだが「幹事会交通費、懇親会(於円通寺)19名分 600,000円」である。
単純計算で一人約3万円の交通費と懇親会は、有道会の不正会計事件と全く同じ構図に他ならない。
多々良問題から派生した金銭がらみの問題を解決する立場にあろう者が、カンパで自らの飲み食いに使うことは言語道断であろう。
改革の志が千代川師と全く違うことは、この部分だけで理解できた報告書だった。
報告書で感じたこと
投稿者:
宗侶
投稿日:2009年 9月15日(火)21時50分16秒
あくまでも個人的な意見ですが、懇親会費っていうのが気になりますね。
別に懇親会自体が悪いと言っているのではなく、宗門の体質改善を訴えて寄せられた浄財が、懇親会費という名目で費やされている点に違和感を覚えます。
今や全曹生でさえ、懇親会などは会費制で行っているのではないでしょうか。
私の感覚がおかしいのですかね・・・???
余談ですが、次期首相を中心にした党内グループの定例会は、飲食代なども全て自己負担にすることで透明性を高めていると聞きました。
別に次期政権与党の支持者ではありませんが、改革を謳う勢力であればそのぐらいの意識は持って当然なのだと思います。
たとえ懇親会費に費やされた額は僅かであっても、そこに会の姿勢が見え隠れしますね。
「400万円」の使い途について、高倉克宗氏の釈明
投稿者:
千代川宗圓
投稿日:2009年 9月14日(月)21時50分48秒
編集済
お詫びと御報告
謹啓
涼秋の候、尊董老大宗師におかれましては、益々御隆昌の事とお喜び申し上げます。
さて、私が宗門の現状を憂え、宗政改革を推進する為に、志を同じくする千葉県迎福寺住職千代川宗圓師と手を携えて「21世紀の曹洞宗を考える会」を立ち上げましたのは、平成17年10月の事でありました。
私共の憂宗の思いは、全国の宗門御寺院の皆様方から予想を超える共感を呼び、その力強い御支援と御声援に励まされて、微力ながら一定の役割を果たす事が出来た様に思います。
しかしながら、愈々これからという矢先、千代川師と袂を分かつ成り行きとなり、不本意にも志半ばにして会の活動を中断するに至りました。その結果、多くの老大宗師の御期待を裏切る結果となりました事に対し、改めて深くお詫び申し上げる次第であります。
宗門改革の思いが途絶えた訳では御座居ません。私は自分なりに熟慮を重ね、独自に活動を再開する考えを温めておりました。ところが、人智の及ばざるところ、思いもかけず生死を分かつ病魔に冒されるという境遇にあいました。この三年の間に、急性膵臓炎、大腸炎、出血性胃潰瘍、十二指腸潰瘍、更には脳梗塞と五度にわたり入退院、そして手術、更にリハビリを繰返し、息継ぐ暇もない有様で、闘病生活を過ごしておりました。その間、宗務所・教区の行事にも義理を欠く状態で、今夏に至ってようやくの事回復を得て、復調にと努めているところであります。
当然の事ながら、宗門の現状についての情報からもすっかり遠ざかり、また宗門の方々との交流も疎遠になっておりました為、「21世紀の曹洞宗を考える会」で全国の宗門関係者からお寄せいただいたカンパの行方について、私と千代川師の道義的責任を問う様な掲示文書が、インターネットのブログ上で行き交っている事など知る由もなく、生還を果たしてそうした状況を初めて知り、まるで浦島太郎の如く驚き、かつ戸惑っているというのが正直な心境であります。
現実を離れていた三年の間に、私は多くの事を考える時間を得る事が出来ました。また宗門のあり方や宗政改革の方向についても、従来とは異なる角度や視点から眺める事が出来るようになったと思います。
そこで自分なりに一つの確信に至った事は、私には私のやり方があるという事であります。
私は生来、文章力に乏しく、文字を綴って人に思いを訴えるという事が苦手な人間であります。これまで私は、人間対人間のぶつかり合いを通じて相手を理解し、時には憤りをぶつけ、手を取り合って泣き、そして笑い、心を通わせてきた人間であります。一箇半箇の説得によってこそ共感の輪は広がり、そこに確かな絆が生まれるというのが、身を以って体得した私の人間学であります。
宗門の抱えている問題を一つでも具体的に解決に導き、宗門のあり方を変える為には、「宗門」という漠然とした大きな相手に向かってもの申し、糾弾するだけでは何の解決も生まれないという考えに、益々確信を深めたという事であります。その為には、自分の足で歩いて全国の御寺院を尋ね、同じ宗門人同士として宗門の直面する問題を考え、行く末を案じ、どうしたらよいかを語り合いたい。地道ではあっても数珠玉一つ一つをつなぐ様に、そうやって共感と連帯の輪を広げていく事こそが、私に出来る行動であり、役割であると考えます。
いわゆる宗門内の大衆運動、民衆運動の発展があります。
宗門を憂うる気持ちは千代川師も同じでありましょう。千代川師自身、今全国を飛び回り、宗門の行く末を案じ講演活動を行っております。大変な行動力であり、その情熱には敬意を表する次第であります。しかし、私と千代川師の生き方は異なるものがあろうかと存じます。それは前にも申し上げました通り、宗門人一人一人の全員参加の大衆運動の出発を促す活動であります。
この場を借りて、私は私の方法で21世紀の宗門について考え、新たな道を切り開いていく決意を表明したいと思います。
最後になりましたが、ブログの掲示板に寄せられた「道義的責任を果たせ」との声にお応えする為に「21世紀の曹洞宗を考える会」の私に関わる会計についての御報告をここに併せて添付させていただきます。
記
「収入」
千代川宗圓氏より 4,000,000
全国御寺院からのカンパ 300,000
銀行利息 824
収入合計 4,300,824
「支出」
第一信、第二信印刷費、郵送費、封筒代等(全国1万2千ヶ寺分) 2,146,880
幹事会交通費、懇親会(於円通寺)19名分 600,000
旧多々良学園問題全国調査費用14名分(H.18.3.6〜9.26まで) 650,000
連絡者協議会会場費、懇親会費(ホテルラフォーレ新大阪) 360,000
通信費、資料作成費 30,000
支出合計 3,786,880
「差引合計」 513,944
以上が御報告であります。尚、この残金につきましては、今後の活動費用にさせていただきたく思っております。尚、私が提供致しました資金については、支出に計上しておりません。
以上、充分意を尽くす事は出来ませんが、私のお詫びと御報告に代えさせていただきます。
再拝頓首
平成二十一年九月吉日
茨城県水戸市千波町1227
弥冨山 円通寺 住職
高倉 克宗 九拝
京都じゃないと、
投稿者:
中外読者
投稿日:2009年 9月14日(月)16時39分29秒
ダメなのかな??
9月11日9時11分
投稿者:
私も平和を祈ります
投稿日:2009年 9月11日(金)23時55分39秒
本日再度「平和の鐘」の紹介のある掲示板
http://www2.rocketbbs.com/625/chinokoe.html
を訪問した。
それは地の声氏の唱えた平和の鐘の主張に共感した一人であったからです。
そこで敢えて一言申し上げたくなりました。
地の声氏が9月9日に平和の鐘を撞くことを推奨したのであれば、なぜ本日9月11日にも同じ声を上げようとしないのか。
ここでの書き込みにもあったが、だから仏教徒としての評価に中々つながらないのだと思います。舌鋒鋭い語り口は常に左派の枠組みでしか解されず、歪んだ印象を時に周囲に与えています。被害・加害両面から戦争を語るべきことを説きながら、その主張の大半は加害責任ばかりのみの追及です。
私は地の声氏の主張にも共感できる部分があるからこそ、敢えて断腸の思いで厳しい声を投げ掛けたいのです。
ちなみに、私は9月9日の平和の鐘に引き続き、本日9月11日もテロの犠牲者のための慰霊の鐘をつきました。
この全世界における戦争やテロの犠牲者の立場を推し量って鐘をつく時、「アピール度も高まる」という気持ちさえ何処かに吹き飛んでしまったような気がします。純粋に平和を願う気持ちとはそのことを指して言うのだと感じました。
戦争責任の追及は戦没者慰霊の気持ちを踏みにじることなく、
戦没者慰霊の気持ちは戦争責任放棄のための隠れ蓑とならぬように・・・
この姿勢こそが仏教者に求められるべき態度なのではないでしょうか。
私たちが平和を語る時は、やはり思想信条家としてよりも仏教者としてそれを語るべきでしょう。地の声氏の言う加害者責任を追及する態度は、決して戦没者慰霊の思いを無視した上に成り立つものであってはいけません。たとえご本人にその意志がなくとも、結果的に周囲にそのような誤解を与えてしまっては、それは仏教者としての慈悲に欠ける行為になりかねません(足を踏んだ者に足を踏まれた者の痛みは分からない)。ましてや真摯に亡き人を思う気持ちを踏みにじる権利など誰にもありません。
戦争責任の追及は戦没者慰霊の気持ちを踏みにじることなく、
戦没者慰霊の気持ちは戦争責任放棄のための隠れ蓑とならぬように・・・
全世界の犠牲者の人達に対して心よりご冥福を祈ります。
平和を祈るさんへ
投稿者:
参究者
投稿日:2009年 9月10日(木)11時45分36秒
>「純粋に平和を願う」ひとたちの陰に、特定の意図を持つ「政治的人間」が見え隠れする。
そうですね。
地の声氏のこれまでの主張や、他の方の氏に対する一連の評価を見ても、平和を祈るさんの抱く印象は分からないまでもありません。決して少数派ではないと思います。
かくいう私も、平和を祈るさんと一緒で、純粋に平和を願う気持ち自体は共感できても、その気持ちを表現して伝えていく手段に関しては一線画す部分があります。
でも、私は思うのです。
なぜ、同じ平和を願う気持ちがあるのに、相手に対する理解が深まることなく、時にそこに対立の火種や不信感しか生まれないのだろうかと。
こういうことを言うと、対立する相手はきっと「それはあなたの無理解が原因だ」と吐き捨てるかもしれません。それが天に唾吐く行為だと気付かずに・・・。お互いがお互いを無理解と最初から決め付けしまっては進歩がないでしょう。無理解な原因は自分にもあるかもしれないと一度立ち止まる器量と忍耐が求められるのです。
この掲示板のどなたかの書き込みの中に、非常に印象に残っている言葉がありました。それは、こういう対立する議論の中で仏教者に求められる態度は、ある種の寛容さだということです。
私も各所で訴えていることなのですが、仏教者であればまず相手が本当に言いたいことの真意を読み解く努力が必要だと思います(もちろん相手が愉快犯的な確信犯の場合は別です)。対立の火種というのは、双方にその努力が不足しているから生まれるのではないでしょうか。
その対立の構図は、時に相手を激しく罵倒してまでも自らの立場と主張を固持しようと防御の姿勢に入ります。だから益々双方が歩み寄ることが困難になるのです。その態度は互いの心を閉ざす原因となり、寛容さとは逆の傲慢さしか生み出しません。それは決して仏教的とは言えないでしょう。
だから、「人権」という錦の御旗を立てながらも、その御旗をもって相手の人権を侵害する結果を生み出してしまったり、平和や仏教の精神を謳いながらも、そこにはいつも平和や仏教とはほど遠い対立の構図しか生まれないのです。それを冷静に見極めている方はたくさんいらっしゃると思います。そのある種の偽装が、我々の潜在下に耐えがたい嫌悪感をもたらすのでしょう。ここまでくると、人権や平和や仏教の名を借りて何をか言わんやと勘繰ってさえしまいます。
私は宗門が内山愚童氏を顕彰したことに対するひとつの評価として、宗門が氏が身命を賭して貫き通そうとした主張の真意を理解しようとしたことにあると思っています。これまでの宗門の氏に対する評価は、時の国権が下した判断に追従するものでした。それをその立場から一度離れて、氏の主張を改めて理解しようとした結果が氏に対する再評価です。その姿勢こそが、氏の主張を再評価しようという寛容さの表れではないでしょうか。何も氏が掲げたイデオロギーの優劣を競う問題ではないと思います。対立の構図がもたらす勝ち負けの問題ではないということです。
だから、私も地の声氏の主張を単に左右の構図で括ってしまうことに慎重でありたいと思っています。(肝心な地の声氏が対立の構図で議論を進めていたのでは埒があきませんが)。ましてや、政治的な特定の意図を持つ政治的人間が見え隠れすると決め付けるのは早計だと感じました
やはり我々は、まず相手の真意を推し量る器量を持たなければならないということです。だから、私はあえて地の声氏の「平和の鐘」の提案を、政治的に受け止めずに前向きに評価しようとしたのです。
例えば、仏教徒が過去の戦争責任を問う場合は、戦没者慰霊に務める方々の心情に十分配慮した発言をするということが必要だと思います。また同時に、僧侶が戦没者慰霊に携わる場合には、問われている加害者責任を十分検証した上で携わり、なおかつ慎重な発言を心掛けること(誤解を与えないような発言という意味で、言葉狩りを恐れての便宜的対処ではない)が必要だと思います。この両者の相互補完的な機能が、仏教者が双方の意見を述べ合う上で必要最低限度の態度となるのではないでしょうか。単純に、戦争責任の追及が戦没者慰霊の否定として受け止められたり、戦没者慰霊の想いが戦争責任からの回避という括りで色分けしない方がいいということです。
得てしてその議論の中心に身を置く方々は、周囲からのその評価自体を否定しますが、周囲からみると結局その構図でしか議論してないように見える時が多々あります。互いが互いの心情・立場を理解尊重し合い、認識していく努力をしていかないと、この種の議論は永遠に噛みあうことはありません。
その姿勢を忘れて互いを攻撃し合うゆえに、「右・左」といった単純な色分けの構図でしか受け止められないのです。これは、思想信条家が取るべき態度ではあっても、仏教者が取るべき態度では決してないと思います。もちろん私自身も常に自戒しながらこれからも発言していくつもりです。
9月9日9時9分
投稿者:
平和を祈る
投稿日:2009年 9月 9日(水)09時55分57秒
編集済
平和を祈る気持ちは変わらない。
憲法9条も、尊重すべきである。
ただ、……。
憲法9条を守るために、「9月9日9時9分」に鐘を撞く、という語呂合わせは、「純粋に平和を願う」ひとたちの陰に、特定の意図を持つ「政治的人間」が見え隠れする。
「純粋に平和を願う」人たちなのか、それとも、政治闘争の手段として「憲法9条」を掲げているのか。かつて、戊辰戦争で長州の幹部は、実は、「開国」を目指しながら、「攘夷」を倒幕のイデオロギーとして利用した。
「純粋に平和を願う」僧侶ならば、毎日、平和を願い、祈っているであろう。
平和を願うのなら、なぜ「9」にこだわるの? 銀河鉄道「999」のイベントと同じ次元の発想。
もうひとつの問題。
“無抵抗”は、仏教的人間愛かのように見える。
しかし、かつてサルトルは、「飢えて死にかけている子どもの前で、文学とは何か」と、現実と思想の乖離を悩んだ。
ガンジーのように、「不服従、非暴力」という、暴力に訴えない、激しい抵抗の方法もある。
もし、他国から日本が侵略されて、家族が殺されようとしたら、私個人は抵抗する。
……あくまで、個人的意見として。
平和の鐘
投稿者:
参究者
投稿日:2009年 9月 9日(水)00時55分20秒
ここの常連さんである地の声氏が、自ら運営する掲示板にて次のような提案をしておりますので紹介します。
http://www2.rocketbbs.com/625/bbs.cgi?id=chinokoe&mode=res&resto=1046
私は、その提案に賛同し早速指定の時間に実行したいと思います。
文中にある「アピール度が高まる」という部分はどう解釈すれば良いか判断に迷いますが、純粋に平和を願う思いから私個人は共感を示せます。
そこで、私は平和への祈りを込めるのと同時に、お寺という特質を生かして戦没者に対する慰霊(鎮魂)の心を込めて鐘を撞くべきだと思いますがいかがでしょうか(そういうスタンスは地の声氏にはどう映るか不安ですが・・・)。
賛同していただける方は、ぜひ二度とあのような戦争を起こさない永久平和への誓いと、全世界の戦没者の方々への慰霊のために心を込めて鐘を撞きましょう。
この場を借りて失礼いたしました。
関東で、葬儀費用が
投稿者:
大閑道人
投稿日:2009年 9月 8日(火)11時46分4秒
高くなる理由(の一つ)
地方都市の当地では、午前10時までの逝去は、
当日通夜、翌日葬儀が可能あり、そのように進める。
なぜならば、遺族も親族も近隣に居住しているから。
だから、斎場での費用は、一泊分のみ。
食事代・室料・遺体の保存処置費用等も、一泊分のみ。
ところが、関東地方では、
遺族親族が地方から上京するために、一日延びる。
直接葬儀にかかわる費用じゃないものが増えることになる。
神奈川歯大の52億円
投稿者:
情報
投稿日:2009年 9月 7日(月)23時56分13秒
朝日新聞、9月7日付け朝刊一面トップ。
「投資52億円 回収不能 神奈川歯大、ずさんな運用指摘」
その3倍もの「運用失敗、回収不能金」が、どこぞの大学であったような。
投資担当者も、責任者も処罰されず、退職金も支払われる。
だから、同じ失敗を繰り返す……。
一体、誰が損失を補てんするというのだ。
監視人さんへ
投稿者:
宗侶
投稿日:2009年 9月 4日(金)17時19分31秒
ご理解いただきありがとうございました。
ややもすると、私のような身内の立場からこのようなお願いすると、事実の隠蔽といった批判や曲解を浴びかねないような状況で、意図をご理解いただき感謝しております。もちろん、ここで議論されているような一部の前向きな議論に繋がる書き込みを制限する意図はありません。しかし、前回述べたような人権配慮に欠いた無責任な書き込みに関しては憂慮が必要だと思います。
「宗侶」さま
投稿者:
監視人
投稿日:2009年 9月 4日(金)11時22分9秒
了解しました。
私とて、この掲示板を「告発の場」にしようという意図はありません。
訂正
投稿者:
宗侶
投稿日:2009年 9月 4日(金)10時16分12秒
面白おかしくと言ったのは、決して管理人さんに対してではありません。
過去にそういう事実があったことを私も聞いてますし、実際私の身の回りでもありました。
その件について真摯に反省することは当然のことです。ましてや被害者の方にとって深刻な問題であることも当たり前の話で、修行道場が僧侶の育成機関である事実を考えれば、加害者に対する更生教育という責任を負うことも事実だと考えます。その反省は宗門を上げて行ってきたと思います。
ただ、そういう事実の積み重ねを一切無視して、時には被害者の方を、時には加害者の方の人権を考慮しない書き込みが横行することを懸念するのです。
別にパンドラの箱にするつもりはないのですが、意図をご理解いただき監視人さんには冷静な対処を求めたいと思います。
「宗侶」さま
投稿者:
監視人
投稿日:2009年 9月 4日(金)01時17分28秒
ありがとうございました。
書きました事態が、組織に行われているとは思いません。組織的に行われていたとしたら、犯罪です。
ただし一点だけ。
私は、「面白おかしく語」っているつもりはありません。
被害者にとっては、深刻な問題です。
最近も、本山ではありませんが、あったようです。
監視人さんへ
投稿者:
宗侶
投稿日:2009年 9月 4日(金)00時57分48秒
以前も書き込みしましたが、監視人さんからの今回の指摘を受けて、私は再度ある僧侶の方が言われた「数の維持か、質の維持か?」という言葉の意味について考えました。その言葉の意味が全ての問題の核心をついていると思います。
それと、今の修行道場の名誉のために明確にしておきますが、修行道場という組織全体で体罰という名の暴力を容認することは決してありません。(檀信徒の方の閲覧があるのでここは明確にしておきます)
ただ、では体罰が完全になくなったかという問題については表裏があるでしょう。それはどの世界においてもそうだし、私たちの時代も前ほどではないと言われつつ正直ありました。
しかし、それはもう修行道場における体制の問題ではなく、暴力を振るう側の個人の質の問題だと思います。(昔は知りませんが)
もちろんいつの時代であっても修行道場としての管理責任は問われて当然だと思います。それは修行道場と宗務庁一丸となって取り組んでいるのではないでしょうか。
これらの問題はまじめに議論されればいいと思うのですが、面白おかしく語られることに修行道場のOBとしては一抹の不安を感じます。
今でもまじめに修行している現役の修行僧に対して忍びなく思います。
「宗侶」さま。本山での暴力について
投稿者:
監視人
投稿日:2009年 9月 3日(木)18時11分17秒
編集済
あなたのような書き込みをされる方だったら、私は心配していません。
なぜ、平和や人権を標榜する伝統的仏教教団に、権威主義のような風潮が起きるのか? 私には、かねてから大きな疑問でした。
もしかしたら、修行の仕方に問題がありはしないでしょうか。間違っていたらすみません。
複数の僧侶の方から、本山の修行で、仏教の教えとは思えないような、暴力が横行し、中には半死半生になる方もあると聞きました。観光客からは見えない所で、です。
戒律を犯したのならまだしも、仏教を修めるための行いのやり方がちょっと違うだけだったり、指導する“上役(こういう言葉かどうかはわかりません)”の胸先三寸で、修行僧の人格を全否定するような暴力が行われているといいます。
そのような暴力は、仏教の名に値するのでしょうか。
検察官の取り調べは、被疑者が男性の場合、ズボンのベルトを取り(首吊りをしないようにとの理由らしい)、相手の人格を否定する言葉を浴びせるところから、始まると聞きました。
それと同じことが、仏教界や曹洞宗で当たり前のように行われてはいないでしょうか。
そんな修行で自尊心を“去勢”されると、上に媚びへつらい、下には厳しくなります。権威主義的、官僚主義的になるのは当たり前です。
「ミャンマーのじゃんけん」って、知ってますか。
大将は兵隊に勝ち、鉄砲を持っている兵隊はトラに勝ち、トラは大将を襲う。
私は、“暴力的指導”をあまり受けたことがないので、理不尽な命令だったら、兵隊は大将に諫言できないのか、と考えてしまいます。
曹洞宗における修行中の暴力。たぶん、タブー中のタブーでしょう。たとえ匿名でも、この掲示板に書く僧侶は少ないでしょうね。
監視人さんへ
投稿者:
宗侶
投稿日:2009年 9月 3日(木)17時33分54秒
出入りの業者さんたちも、私たちを日々評価しているということですね。
別に評価に媚びる必要はないと思いますが、その評価には謙虚でありたいと思いました。
自戒を込めて日々のあり方を考えます。貴重なご意見ありがとうございました。
僧侶の官僚主義的傾向
投稿者:
監視人
投稿日:2009年 9月 3日(木)12時10分9秒
曹洞宗や仏教の歴史については詳しくはありません。
ただ、仏教教団が、封建主義の中で僧侶に細かく階級制度を導入し、僧衣まで色を制限したのと関係があるように思います。
お坊さんは、一人ずつ会うと決して「偉そう」ではないのですが、僧衣に身を包むと、以下の長束さんのように思われる方が多いのではないでしょうか。
僧侶には、自分たちの「偉そう」さ加減は見えません。とくに、お寺の出入り業者さんには、まるで“使用人”かのように厳しいようです。
今から、お釈迦さまの時代の制度に戻るべくもないのですが、なぜ一般の人たちから不信感を持たれているのかを、お坊さんにも考えていただきたいものです。
お坊様へ
投稿者:
長束利平
投稿日:2009年 9月 3日(木)10時03分25秒
編集済
お坊様は横柄な態度を取る方が非常に多です。
偉くなるにしたがって横柄になっていくようです。政治家と一緒ですね。
我々もそうですが自らの態度を見直すとよろしいかと思います。
謙虚さは大事ですね。
『坊主の常識・世間の非常識』
投稿者:
監視人
投稿日:2009年 9月 3日(木)01時25分56秒
『坊主の常識・世間の非常識』
第3刷、驀進中。
ただし、増刷数に限りがあり、お早めに。
「オンライン書店 横断検索」※在庫が一目瞭然
http://book.jubei.jp/481740678x/
「この国に必要なのは「本」だ」(日新報道)
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「書籍 葬儀の売れ筋」
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ブログ「犀の角のように独り歩め」
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/51603097.html
ブログ「パパハポンのルソン島サバイバル作戦」
http://papahapon.exblog.jp/12065116/
ブログ「グータラママのダメ人間」
http://plaza.rakuten.co.jp/gutaramama/diary/200906240000/
「テレビで紹介された情報」
http://shoppingfeed.jp/media/miid-2122084/item/?fid=000M170&paid=0113
「坊主の常識・世間の非常識[TBS]噂の!東京マガジン 2009/08/02(日)13:00放送」
http://gold.ap.teacup.com/blogtv6/21211.html
「絵空師の本屋さん」
http://astore.amazon.co.jp/palmistrywebs-22/detail/481740678X
「ふぉれすとの本棚」
http://booklog.jp/users/hamukun555/archives/481740678X
ブログコメントを見て
投稿者:
宗侶
投稿日:2009年 9月 1日(火)22時31分0秒
数年前、ある尊敬する僧侶の方から「数の維持か、質の維持か? それを選択する時期が来るかもしれない」という話を伺ったことがあります。
まさに今がこの時期なのではないでしょうか。政権選択以外に、まさに教団としてその道筋を模索する時期に来ているのだと思います。
ブログへのコメントから
投稿者:
監視人
投稿日:2009年 9月 1日(火)17時31分28秒
今現在… (一僧侶)
2009-08-25 15:08:59
私はある地方都市で住職をしております。この掲示板の事は聞き及んでいたのですが、余りにも一住職には視点が高くて…
現在曹洞宗に於いて住職、副住職の殆どが、私も含めて、師匠の実子だったり、他の寺院の子弟を何らかの形で譲り受けたり(ちょっと不適切な表現とは思いますが…)と、明治以降の妻帯が許された?以降の僧侶の血を受け継ぐ者が大半を占めていると思われます。そんな中最近私が思うのは、僧侶の質の低下です。明治以前は師匠の下で修行をした志ある僧侶が住職をしていたのでしょうが、適任者がいなければ、後を任せる者がいないと言う事も有ったはずです。
処が妻帯を許されてからは後任問題に悩まされる事も少なくなりました。自分の子供を後継者に育て上げれば良いからです。
何故妻帯が許されたかは良く分かりませんが、政治絡みであったのかも知れません。妻帯が許された当初こそ、妻に迎える家柄、血筋なども吟味されていたでしょうが、昨今では嫁の来ても中々無い事から、自由恋愛での妻帯が殆どではないでしょう。それが良い悪いではありませんが、血筋、DNA、志と言う観点からすれば、昔と比べようが無いくらい僧侶の資質が低下しているのではないでしょうか?
勿論中には、父の背中を見て志を持って仏門に入った者もいるし、本当に僧侶になりたくて出家した方もいます。しかし中にはやりたくも無いのに寺を継がされてる、等と思いながら檀務をこなしている人も少なく無いはずです。
でも地域とお寺が密着している所では、お寺の息子さんが住職をしてくれるのが一番有り難い。と思っている檀家の人も多いのも確かです。
要するにわが曹洞宗は、地域密着型を確実にするか、曹洞宗と言う教団を確固たるものにしていくか、と言う両極端の未来を考えれば、後者は有り得ないのではないでしょうか?
それとも後継者問題を顧みず、徒弟の資質を問うかです。
いずれにせよ曹洞宗の未来は明るく有りません。
議員を選ぶという選択
投稿者:
骨山住職
投稿日:2009年 8月31日(月)15時26分52秒
衆議院選挙が終わった。総選挙に関連して、地の声師、宗侶師、千代川師のコメントが登場している。
日本の選挙制度は必ずしも評判は良くない。
1、一票の格差
選挙民数と議員定数とのアンバランスのため、「一票の格差」問題はなかなか解消されない。
2、小選挙区制
自民党政権は選挙費用の低減と言う名目のもとに(本音は自民党の議席独占を狙って)、中選挙区を小選挙区制に変えた。前回の小泉劇場選挙では小選挙区制の利点をフルに生かして自民党は圧倒的多数を獲得した。4年前、或る政治評論家が「今回は自民党が圧勝しましたが、オセロゲームで白が黒にあっという間に変わるように、次回は民主党に代わる可能性もあります。それが小選挙区制です。」とコメントしていた。なかなかの慧眼だと思った。
選挙制度には多少の問題があるにしても、今回の総選挙のように「政権選択」という形で民意が反映される選挙はいいなあ。それに引き換え、宗門の選挙は‐‐‐。
永平寺系、総持寺系という色分けにはほとんど利点が無く、有道会総和会の馴れ合い政治による「多々良問題」「祖院復興計画の不透明さ」という弊害だけが目につく。こういう問題ある選挙制度であるが、この選挙制度を改革するのは宗議会の役割である。前回の宗議選以前から多々良問題は表面化し千代川師等より宗制の問題点もかなり指摘された。しかし、宗議会は全く機能しなかったとまでは言わないにしても十分に機能しなかった。そういう前歴があるだけに、自主的に制度改革に取り組むとは思えない。それだけに前途は厳しい。
但し、まったく展望が開けない訳ではない。従来、各地域の政治会派の推薦が得られないと選挙に立候補出来ないと思われて来た。しかし、不正会計問題で、渦中の宮崎議員は議員には居座り続けているが、有道会を脱退している。つまり有道会会員でなくても、永平寺系議員として居られる訳であり、立候補も出来るわけである。次回の宗議選には、千代川師のように、有道会総和会の推薦を受けない候補者が出馬し、従来の利権やしがらみを離れた宗議となる人物も出てくるだろう。従来の選挙よりも「選択が可能な選挙」となるであろう。このことが突破口となって、風通しの良い宗門となってもらいたい。そういう候補者を応援したいと思います。
ディスクロージャーの大切さ
投稿者:
風林火山八王子
投稿日:2009年 8月31日(月)13時35分13秒
今回の選挙を通して一番感じたことは、ディスクロージャーの大切さです。
ディスクロージャーとは「物事を明らかにして示す」(情報公開)ということで
物事を判断する上で、非常に大切なことです。
また、組織運営上も信頼を得る上でも、活動全般を判断するために必要なあらゆる情報の公開が求められています。
一般的に、ディスクロージャーされていない場合において問題が起きた場合、嘘を重ねる危険性があり、泥沼化する場合が多数です。
今の曹洞宗が直面しているほとんどの問題で、千代川氏が常々仰っていることは、
このディスクロージャーの大切さであり、
自身、身をもって、諸問題の根本の情報公開を求め、
また、得た情報を公にしてこられたと思います。
この様な地道な努力は、いかに 宗門の改革 にとって貴重な事かは、
この掲示板をご覧になっておられる方は皆さん理解しておられると思います。
今後、正しく情報が公開されることにより、物事の進むべき方向性はおのずから示されることになると思います。
また、ディスクロージャーされることにより、本当に責任を負う部署又は人達が明らかになり、
物事に本当に一所懸命に活動されることになると思います。
選挙の結果
投稿者:
千代川宗圓
投稿日:2009年 8月31日(月)12時03分1秒
民主党308議席、自民党119議席は驚きの結果として全国を駆け巡った。
私の友人達(民主党)も全て議席を獲得してくれた選挙だった。この友人達は前回の“小泉台風”で吹き飛ばされた仲間である。この4年間、捲工重来を期して地道に活動を続けた結果であり、国民は自民党に「NO」を突きつけ、「変革」を求めて民主党に期待し、日本の政治に今までに無い政策を求めたものであると思う。
私は自民党全盛期時代、政治家の秘書として勉強したが、その時代は派閥の大将(天の声)が利権や人事を含めて全てを取り仕切る時代で、これまでの宗門に酷似していた。
しかし宗門では、「今の宗門は改革されなければならない」と感じている一般寺院の方々が多数を占めていると思うが、これを表現するチャンスがなく、宗門は旧態依然として変革がなされていない。
その原因は、現行の選挙制度にある。
宗門の守旧派は有道、総和を問わず現行制度を固持し、談合選挙を行い、大寺の住職を中心とした無策宗政を続けてきた。その結果が、多々良問題であり、祖院復興予算だった。最大の問題は、駒澤大学の無責任経営(ギャンブル経営)であり、宗門出身の理事長及び理事連中の無責任体質と無能ぶりであるだろう。
国政において変革を求める場合は、国民の一票で主権在民が表現される。その点、宗門は主権在民だろうか?
今の選挙制度については、宗議会でも提議されているが、これまでの総長は常に先送りを続けている。
選挙制度を変える事ができるのは宗議会ではあるが、全国の宗務所が中心となり現行選挙制度を討議し、アンケート調査等を行い、それを宗務総長に提出したらどうかと思う。
私は、来る11月に全国所長会で意見を述べるチャンスを頂いているが、その際は「現行選挙制度を変える」事を中心として意見を述べることとする。
有道、総和の連記制度や年令制限、議員の定数問題、選挙区区割り制度等々、問題だらけの宗門の選挙制度を変えるべき時代が到来したと私は思う。
合 掌
独言(2009衆議院選挙に寄せて)
投稿者:
宗侶
投稿日:2009年 8月31日(月)11時30分8秒
政権交代!・・・その言葉が意味するものは大きいですね。
従来の既得権者は、いま被っている恩恵が無に帰す恐れがあるから戦々恐々でしょう。
でもこの変化は、単純に一方のみの損得の問題では計れない側面が出てきます。
既成の枠組みが変わる以上、これまでの呪縛から解き放たれる一面もあれば、無意識のうちに被っていた恩恵にも預かれなくなる一面も出てくるからです。
私たちはその両面併せ持つ危険性を、四年前の郵政選挙で学んだはずです。
改革という名の変化を耐え抜くには、歓迎の変化もあれば、痛みを伴う変化もあるでしょう。
それは我々仏教界にとっても同じことだと思います。
構造的な税収不足の中、無駄遣い一掃を掲げた政権が着手するであろう施策は、何も霞が関や虎ノ門だけではないはずです。
千代川氏をはじめとした確たる経営手腕をお持ちの方や、一部の基礎体力のある寺院はその余波に耐え得る術があるでしょうが、大半の地方の零細寺院はその余波をまともに受けて水泡に帰す事態になるかもしれません。
その外圧の是非に関しては、宗門内の改革を考える上でも、この四年間の郵政民営化を問う議論と一緒で単純な問題ではないはずです。
宗門の改革を謳う以上は、この歓迎と痛みの両方の変化を背負う覚悟が必要なのだと感じました。
もしかしたら、もうそろそろその時期に来ているのだと思います。
私たちもその覚悟を背負った上で形を変えていく勇気が必要なのでしょう。
政権交代!
投稿者:
地の声
投稿日:2009年 8月30日(日)21時54分53秒
55年体制がようやく崩壊した。絶対は無いというのが仏教であって、それが証明されたと
言える。次は曹洞宗改革。
現在の有道・総和に固定された曹洞宗の選挙システムを、まずは壊すこと。現場寺院の声を
反映できる新会派を立ち上げること。そのために宗政を改革すること。これは個々の寺院の
認識に関わる重要な課題となる。
http://www2.rocketbbs.com/625/chinokoe.html
高橋卓志『寺よ、変われ』(岩波新書)
投稿者:
地の声
投稿日:2009年 8月29日(土)20時47分2秒
少々長文の引用になるが、乞ご容赦。
‥寺に人が来ない、社会から取り残され、社会的有用感がない、といった機能不全‥若い坊さんたちが、出る杭として打たれ、自由に発言できずにいる長老主義や大寺主義的関係を改善しなくていいのか。門を開けられず、社会的問題が見えず(見ようとせず)、調整能力をもたず、異分野との協調ができない、といった寺と社会のかかわりは、このままでいいのか。‥経済的自立への意欲も感じられず、寄付金に依存し、その結果、檀信徒とのトラブルも頻発、という経済感覚でいいのか。後継者に寺の魅力を残せない、それゆえに世襲に頼るしかないという将来展望でいいのか。‥社会の人々の棄信感に対処できず、宗教的権威はいつまでも続くと信じ、社会の方向性が読めない体質のままでいいのか。‥はっきり言って、日本の寺はこれらのことすべてが解決に至っていない。‥前記した「‥‥でいいのか」という問いに対して、坊さんたちは「‥‥でいいはずがない」と答えるだろうと普通は思う。しかし、多くの坊さんたちは「‥‥でいいのだ」と答えてくるのである。それは、坊さんたちがいままで「変わろう」という意欲をもたなかったことへの言い訳にしか聞こえない。‥(pp.218-219)
既成仏教を真っ向から批判できる時代がようやく訪れた。感慨無量なものがある。千代川氏、高橋卓志氏どちらも僧侶である。歴史が示すように、外圧と内部崩壊により改革は実現する。今まさにその時をむかえつつある。政治も変わる。日本の仏教も変わるはずだし曹洞宗も変わるはずだ。その礎となるのは、まさにあなたなのだ。曹洞宗史の大きな転換点にあなたは立っている。そこで何をなすか、あるいは何をなさないか‥。仏教者の原点に立ち帰れば答えは自ずと明らかであろう。
http://www2.rocketbbs.com/625/chinokoe.html
「勇気」とは
投稿者:
監視人
投稿日:2009年 8月29日(土)15時22分45秒
編集済
あまりテレビは観ないのですが、昨夜、仕事をしながらテレビの音声を聞いていて、ビートたけしがおもしろい話をしていました。
細部まで再現はできませんが、こんな話でした。
ビートたけしが、作家・野坂昭如から「勇気があるか?」と聞かれた時、――。
(ビートたけし)「オレはすごい勇気があると思いますよ。第二次大戦の時に生きていたら、まっさきに特攻隊に入っていたと思う」
(野坂昭如)「時流の先に立つのは勇気じゃない。皆が、戦争、戦争と躍起になっている時に、国中から『非国民』と言われながらも、『戦争反対』と言えるか、どうか」
集団がこぞってひとつのムードに酔っている時、「事実はそうじゃない」と声をあげるのは、本当に大変で勇気のいることです。とくに、マスコミは勝ち馬に乗ろうとするので、マスコミの煽動的な批判は耐えがたいものがあります(私自身が、批判にさらされて実感しました)。
ムード作りで反対派を抑えこもうとするのは、右も左も同じ。
曹洞宗も、千代川氏が実名をさらして声をあげるまではそうでした。
>ローソク
投稿者:
大閑道人
投稿日:2009年 8月29日(土)00時33分51秒
監視人様、
お久しぶりでございます。
表題のこと、なんのことかと思っていましたが、
そうです、思い出しました。
地の声師の活動の一環。
ローソク収集して、云々、と、中外に載ってましたね。
やっとわかりました。
それはそれとして、
千代川師の苛立ち、
私も、声を上げきれない一人ですね。
今、自分を見つめなおしています・・・・
和尚Aさん、地の声さん
投稿者:
宗侶
投稿日:2009年 8月28日(金)23時45分44秒
和尚Aさんへ
情けなくも何ともないですよ。私とて得手不得手は確かにあります。
各々の道を歩むことで変わる何かもあるはずです。
在家の方(檀信徒の方々)の思いを取り入れた法式の摸索・・・熱い文章とともにいたく共感いたしました。
地の声さんへ
実は期待しております。本当の人柄を信じて、今後も陰ながら勉強させていただきます。
ロウソク
投稿者:
監視人
投稿日:2009年 8月28日(金)21時31分26秒
テレビ出演、おめでとうございます。
ようやく希望が。
投稿者:
地の声
投稿日:2009年 8月28日(金)21時16分56秒
「ヒット&アウエイ」というわけではないのですが、少々厳しく批判しました。非難轟々は
覚悟の上でした。たまにはこんな書き込みもするのが「地の声」なのです。しかし、一年前
とは反応が違いますね。曹洞宗の「良心」が「もの申す」の主流になりつつある、素晴らし
いことです。
曹洞宗改革を真剣に論じる皆さんがこれほどまで多く「もの申す」に集まったことに感激し
ます。光が見えてきました。いわゆる苦労の甲斐があったと。
そこで、いささか余裕を憶えたことを甘受いただき、下記の言葉を今後の座右の銘にしたい
と存じます。
「微笑もて正義を為(な)せ!」(太宰治『正義と微笑』)
http://www2.rocketbbs.com/625/chinokoe.html
情けない話ですが・・・
投稿者:
和尚A
投稿日:2009年 8月28日(金)14時36分55秒
編集済
千代川師の問い
>有道会不正会計問題や多々良学園裁判の行方、祖院復興問題……、とりわけ今や宗門最大の問題である駒澤大学の投資失敗による損失、その補填をどうするかなどについて、なぜ意見が出てこないのでしょうか
に対する私の回答は
「自分の社会力欠如のために、これらの問題に対して、意見が出せない」からです。
私は、これらの問題が発生した原因や宗門の悪しき体制を考えるとき、決して、無視できない重大な問題だと思います。しかし、私には千代川師のような論理的な施策を講じるほどの知識もなければ、経験もない。だから、これらの問題に関しては、最終的には、千代川師のように、宗議たちとも意見を戦わせることができるほどの実力をお持ちの方にお任せするしか解決策はないと思っています。少なくとも僧侶のみでやって来た私には、どうしていいのかわからないのが事実です。
そんな私にとって、大切なことは自分のできることをしっかりとやっていくことだと思っています。とは言っても、私はこれらの問題に目を背けるというのではありません。しっかりと本質を見抜き、意見ができるようになりたいです。ただ、まだその段階ではないということです。
私ができることは自分たちの身近なところで発生している問題を取り上げ、問題提起していくことかと思っています。それは、宗門が抱えている様々な問題は、各地域の僧侶たちの問題意識の欠如から発生したものと思っているからです。皆がもっとしっかり僧侶をしていれば、こんなにもの重大問題は発生しなかったと思っています。
私の周囲での問題のひとつ
私の周囲には僧侶の視点のみで語られる法要や坐禅会がたくさんあります。その結果、在家の方が坐禅や法要から離れています。坐禅会や法要―そこには僧侶しかいないのでしょうか?在家の人がいるはずです。むしろ、彼らに安心を与える法要や坐禅会をすべきなのに、なぜ、僧侶の視点からしか議論ができないのかと思います。僧侶と在家が同じ目線で法要や坐禅会を作っていく。それが「同事」ではないでしょうか?根本的に「曹洞宗」の看板を掲げながら、毎朝の坐禅もしていない僧侶たちに坐禅が語れるとは思えません。また、在家の思いも苦しみを理解できるのか―甚だ疑問です。それなのに、在家の気持ちをわかった気で偉そうに「コメンテーター」の真似事をするから、怒りを感じるのです。それが私の本音です。
千代川師がおっしゃるように、宗門が「法式至上主義」であくまでも行きたいというのなら、もっと在家の方(檀信徒の方々)の思いを取り入れた法式を模索すべきだと思います。僧侶の視点のみで法要や坐禅が語られる時代はもう遠い昔に終りました。私はそう認識しています。
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