曹洞宗にもの申す
曹洞宗宗門関係者の皆さんへ
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(無題)
投稿者:
地の声
投稿日:2009年11月 7日(土)19時56分33秒
私を煽らないで下さい。
http://www2.rocketbbs.com/625/chinokoe.html
↓
投稿者:
赤い衣???
投稿日:2009年11月 7日(土)18時07分36秒
緋色ではなく赤い衣???・・・・赤い衣・・・赤い・・アカ・・あ!
「赤い衣」とは「アカい衣」と読み替えればいいのですか?
だとしたら、ブラックユーモアセンスありすぎです!
でも、このブラックユーモアは軽視できないですよね。
「地の声」さんにはそろそろ気付いてもらいたいって期待の表れだと思います。
赤い法衣
投稿者:
いつもROM人
投稿日:2009年11月 7日(土)14時40分34秒
編集済
「見苦しい」というご意見もありますが、私的に言わせてもらえば「智の声氏」のご意見には大いに賛同します。
毎回「智の声氏」のご意見には胸のすくような思いで読ませていただいています。
赤い衣のお坊さんでは檀家さんがかわいそうです。緋色ならいいのですが・・・。
でも、絶対に赤い衣は脱がないでしようね、こういう人は。ま、「智の声氏」のせっかくのご意見も無駄だと思います。せいぜいこういう赤い衣のお坊さんが私の檀那寺の方丈さんでなくてよかった!、と思っています。
ただ、この掲示板においての赤いご意見には毎度イラつきます。不快ですよ。この掲示板がまるでダニに取りつかれているようにです。
70万アクセス
投稿者:
監視人
投稿日:2009年11月 7日(土)03時19分23秒
70万アクセスを突破しました。
皆さまに感謝しつつ……。
見苦しい応答はやめてください。
投稿者:
風林火山八王子
投稿日:2009年11月 6日(金)22時24分35秒
見苦しい応答はやめてください。
本当に、お坊様ですか?(精神修行を積み、人々の見本になる方たちですか?)
何回も、管理人さん、HPオーナーから注意されているでは有りませんか!
こんな事を懲りもせずやり続ける事は一般人の中でも失礼に当ると思います。
地の声氏へ
投稿者:
智の声
投稿日:2009年11月 6日(金)22時14分26秒
逃げることで成長は期待できない。
また、逃げてきたから今の貴殿があるのだ。
安全な場所に身を寄せずに、辛くても現実を直視せよ。
でなければ、貴殿は永久にこのままである。
密室に閉じこもる前に、まず脚下を照顧すべし。
良識ある宗侶諸兄からの指摘や私からの過去ログを熟読せよ。
貴殿の自己矛盾と論理破綻はそこに集約されている。
困ったお方ですね。
投稿者:
地の声
投稿日:2009年11月 6日(金)21時12分26秒
智の声と私のハンドルネームをもじっていること自体がウサンクサイのですが、このような
反論をするのであれば、「地の声」ブログに投稿して下さい。監視者もそう言っているはず
です。
もしも、悪質な書き込みということで「地の声」ブログから排除されている場合は、公開し
ているメール
chinokoe@mail.goo.ne.jp
宛てにどうぞ宜しく。
http://www2.rocketbbs.com/625/chinokoe.html
地の声氏へ
投稿者:
智の声
投稿日:2009年11月 5日(木)23時32分26秒
編集済
貴殿がこの掲示板に転載した「暴力問題の捉え方」なる見解、今回に関しては珍しく
異論はない。基本的には。
ちなみに、その転載部分の引用は長すぎるので、詳細は以下からご確認いただきたい。
http://www2.rocketbbs.com/625/bbs.cgi?id=chinokoe&mode=res&resto=1122
では、なぜ今回私がまた投稿する気になったのか。それについて触れたいと思う。
あくまでも貴殿に対するエールだと自負して。
まず、私が個人的に気になったのは、上から閲覧可能な掲示板にも見て取れる、一
宗門寺院僧侶氏からの投稿である。これも引用が長くなるので上から閲覧願いたい。
用いる言葉は違えども、基本的な主張は多くの宗侶諸兄が共感できるものではないか。
誤解しないで欲しい。今回はあくまでも貴殿に対するエールとして一宗門寺院僧侶氏の
意見に共感するのである。やみくもに貴殿を批判するだけが私の役割ではない。
しかし、その共感も次に続く貴殿からのあまりにも空気を読めないレスを見て溜息に
変わる。今後の貴殿のさらなる成長を願って、あくまでも冷静に検証してみる。
>私に関して、このような批判が多いようですので、あえて削除せずにレスすることにします。
まず、この一宗門寺院僧侶氏からの忠告を、削除の対象にするとは何事か!これほどまで
貴殿を案じた指摘はなかろう。それが、今回私の言う「空気を読めないレス」という言葉
の意味である。
どこに削除の対象になるような内容があるのか?私には貴殿に対して改心を促す善意ある
忠告にしか映らない。
私たちが貴殿に向ける批判のひとつに、貴殿特有の明らかな論理の整合性の欠如と矛盾と
がある。分かり易く言えば、「口にする正論と、導き出す結論が支離滅裂」ということだ。
それについては具体的に以下に記す。
>第一点 言い方ではなく内容を議論してもらいたいこと。
>第二点 言葉がキツくなるのは、理屈で言っても理解されない場合。
>第三点 だれしも優しい言葉は嬉しいものですが、それをいつも期待するというのは、
あまりに身勝手。
これらの主張も、貴殿の言葉を借りれば「一見、妥当な、抑制の利いた大人びた意見」
に映らないこともない。
しかし、常に自らを「仏教者」と自称し、自らの言動と仏教の教えとの整合性を自負
する貴殿にとって、上に引用した主張は明らかに仏教の「愛語」の実践と乖離するもの
ではなかろうか。
最初から「言い方ではなく・・・」とか「言葉がキツくなるのは・・・」という逃げ道
を用意しないで欲しい。また、仏教者を自称する貴殿に愛語の実践を期待するのは「身勝
手」なものなのか?
>第四点 不特定多数の、それも相手に合わせて語ること自体不可能であること。
それこそ、一宗門寺院僧侶氏の言う「梵天勧請」の意味をよく考えてもらいたい。
>第五点 はっきり言えば、相手にあわせてレベルを下げる気は毛頭ないこと。
多くは語りたくないが、せめて仏教者として対機説法に徹すれば良いではないか。
>第六点 これは期待を込めて言うのですが、言葉を発しない閲覧者は大勢いて、わたし
の提起する問題をよく考えてくれていること。
期待を込める以前に、多くの宗侶諸兄が指摘をしてきたように反面教師として閲覧して
いる者が多いこともお忘れなく。
>第七点 そもそも地の声とは、長いあいだ沈黙させられ冷や飯を食わされてきた底辺の
宗侶の代弁者です。この怨みは相当深いのです。
以前、どなたかも指摘をしていたが、ここが貴殿の脇の甘いところ。
「怨み」という感情と連関する三毒(貪瞋癡)を戒めるのが仏教者の範たる姿なのでは
なかろうか。貴殿の言う「怨」と改革の源流ともなる「正義」は、冷静に一線が画される
べきである。それが私の言う「口にする正論と、導き出す結論が支離滅裂」たる言葉の意
味でもある。
貴殿が得意とする戦争問題を介した平和や人権問題なども、畢竟行き着くところはこの
「怨み」という感情の負の連鎖なのではなかろうか。
「底辺の宗侶の代弁者」という主張には感情的に同情できても、その「怨み」が相当
深ければ何を言っても許されるのか? 愛語と乖離した言動も許容されなければならない
のか?
貴殿は、2009年11月 5日(木)21時44分10秒に書き込んだ田舎の若輩僧氏に対する
返事の中で、非常に人間味溢れる体温を感じ取れるような書き込みをしておられるが、
やはり貴殿の口から「智慧と慈悲を実践すること」とか「智慧と慈悲を思想から体質化
する日常底」という言葉を聞いても、やはり素直に頷くことができない自分がいる。
上に挙げた第一点から第七点までの自らの言動と、自らが田舎の若輩僧氏に述べた
エールの数々、とりわけ「慈悲は仏教の命」という言葉の意味を冷静に見比べて欲しい。
「相手にあわせてレベルを下げる気は毛頭ない」と切り捨てることが仏教の命たる慈悲
なのか、長いあいだ沈黙させられ冷や飯を食わされてきた底辺の宗侶の代弁者と自称する
者が「この怨みは相当深い」と感情を露わにすることが慈悲に根差した仏教者の態度なの
か?よくよく自問自答してもらいたい。
貴殿の口から発せられた言葉は、今まで私たちが機会あるごとに貴殿に対して述べてき
た「善意ある忠告」そのものである。まずは自らが仏教者として範となり実践すべき内容
の言葉なのである。
恐らく貴殿の言葉自体に嘘偽りはないのであろう。がしかし、だからこそ罪なのだと
私は思う。貴殿特有の自己矛盾・論理破綻の象徴的な事例としか思えないからだ。
私は、田舎の若輩僧氏へ述べた貴殿の言葉を信じたい。その言葉と言動が一致する日が
くることを心待ちにしたい。本当は「暴力から学ぶなど、悲しいことを言わないでくださ
い。ともに頑張りましょう。」という思いを実は共感したいのである。目覚めよ!地の声
よ!
(無題)
投稿者:
匿名一地方副住職
投稿日:2009年11月 5日(木)23時19分6秒
大閑道人師
御理解いただけたようで何よりです。
御配慮に感謝します。やはり同じ仏弟子どおし、語り合えば通じ合えることは嬉しい限りです。失礼もあったかもしれませんがお許し下さい。
なお、私自身は、貴師や「田舎の若輩僧」師が言われているような、修行の意味というのはあまり考えないようにしています。それは、道元禅師がおっしゃっているように、修行というのはそれ自体が尊いことだと信じているからです。
何のために修行をするのか、と自分に問うのは大切なことだと思いますが、それが世俗的な内容や、実利的な内容にまで及んでしまうのは危険です。
道場での修行で「○○を得ることができた」「○○に気づいた」という結果も確かにあるのですが、何も求めない無所得無所悟の姿勢でただただ修行に励みたいと思っております。
しばらくこの掲示板をみることもできなくなります。
皆様のご多幸を祈念いたします。
匿名一地方副住職さま
投稿者:
大閑道人
投稿日:2009年11月 5日(木)22時55分43秒
編集済
>>「安居歴」と声高に言ったところで、せいぜいが数年ほどの、しかも、どこか一つだけ。それがどれほどの価値があろうか?
なるほど、そういうことですか。
ご指摘の旨、理解しました。
この文、削除しましょう、それで本意が変わることでもありませんから、
本文からは削除します。
ただ、この文を触発した投稿は、ここに提示します。
まさに不毛
投稿者:
匿名一地方副住職
投稿日:2009年11月 5日(木)22時50分51秒
大閑道人師
ご指摘の件は言われずとも釈氏であれば重々承知しております。
さらに付言すれば、安居だけでなく、私たちがこの世に生を受けるのも、仏法に巡り会うのも、すべて尊いご縁でしょう。
それは自分の力ではどうにもならないこともあり、だからこそ人と比べるのではなく、自分自身の道を真摯に進むことが大切だと思います。
まさしく、一つまえの書き込みで貴師がおっしゃっていることが正論だからこそ、私は安居が長い人に対して礼を失した書き込みを批判しているのです。
安居が長くても短くても、それだけ単独では僧侶の価値は決まりません。
安居が長い人をいたずらに貶めるような書き込みも、短い人を無意味にけなす書き込みも、僧として許されることではないと思います。
確かに私のこうした書き込みは、掲示板の主旨からしたら枝葉末節であろうかとも思います。ですが、どうしても書き込まずにおれませんでした。千代川師、管理人氏、御理解いただければ幸いです。
田舎の若輩僧さまへ
投稿者:
地の声
投稿日:2009年11月 5日(木)21時44分10秒
編集済
あなたが「仏教者」たるべき自己の問題として暴力を深く考えていることが良く分かりまし
た。いじめ、それも修行道場のみならず自坊の檀信徒からも受けていたことに痛憤を覚え
ました。これは絶対あなたの責任ではなく、まして「僧侶たるもの我慢が肝心」と言ったレ
ベルの問題ではありません。これまでの日本国仏教がなした悪因をあなたが受けている、い
わば被害者なのです。
実を申せば‥「暴力を受けるものこそ暴力を振るう」という、実に悲しい負のスパイラルが
あります。これを突破する方法はただ一つ。仏教者として智慧と慈悲を実践することです。
或いは、智慧と慈悲を思想から体質化する日常底です。それは社会福祉活動と言ってもいい
でしょう。慈悲は仏教の命です。慈悲なき寺は無意味です。慈悲は、世に喜びをもたらし、
世の悩み苦しみを取り除くことです。
あなたが参加することを待っている社会福祉団体は、現在この国にも、いっぱいあります。
特に、寺院僧侶が参加するとくれば歓待されます。これは私の経験から申します。
暴力から「学ぶ」など、悲しいことを言わないでください。ともに頑張りましょう。
http://www2.rocketbbs.com/625/chinokoe.html
匿名一地方副住職さまへ
投稿者:
大閑道人
投稿日:2009年11月 5日(木)21時29分41秒
安居が許されるには条件が整わねばなりません。
いくら志があっても、条件が整わなければ、
安居することが許されないのです。
こればっかりは、自分の力だけではどうしようもないこともあるのです。
そのことにまで思いが向くならば、
「私は、安居させてもらったのだ」となるでしょう。
そこが安居の一番肝心な点ではないでしょうか。
仏陀の弟子様
投稿者:
宗務所職員
投稿日:2009年11月 5日(木)21時26分11秒
本題に戻さず恐縮ですが、どうしても気になったので投稿します。
>葬儀社に組合を作り、日々葬儀のみを執り行う宗務所職員様お忙しい事でも。
私は宗務所職員ですが、こんな表現の生活はしていません。各都道府県に
合計66ヶ所ある宗務所職員がそんな輩だと思われるような表現は甚だ心外です。
多くの宗務所職員は望んでこの職に就いているわけではありません。
各宗務所管内の「誰か」が必ずやらなければならない制度になっている
(PTA役員のようなものでしょうか…)から仕方なくこの役を頂いているだけです。
このことにお返事をいただいても私からはもう投稿しませんが、是非とも
そんなことはないということだけご理解戴きたい。
本当に悲しい書き込みばかりで
投稿者:
匿名一地方副住職
投稿日:2009年11月 5日(木)21時06分46秒
事情によりしばらく書き込みをできなくなりますが、その前に一つだけ。
別に噛みつくわけではありませんが、大閑道人師が書いた
>>「安居歴」と声高に言ったところで、せいぜいが数年ほどの、しかも、どこか一つだけ。それがどれほどの価値があろうか?
だけは納得いきません。
師が、永平寺での修行が短かったことは、ご自身で納得の上で決めたことなのであれば
それは自己完結の範囲であればそれで結構ですが、どうして他人の価値にまで余計なことを
言うのでしょう。その余計な一文で、ただ単に安居歴の短い人が、長い人をうらやんでいるというか、ねたんでいるというか、ひがんでいるように思えてしまう一文です。
そういう意図はなくても、そう受け取れてしまいます。
道元禅師は、安居の大切さを説いています。
もちろん、道場に掛搭するだけが修行ではなく、日常でも安居となりうるわけですが、
それを決めるのは自分の心のもちようでしょう。
だったら、自分が短かろうが長かろうが、それは自分自身の問題であり、人の安居の長短をとやかく言うべきではないと思います。
師の一連の文章は、その余計な部分があるがために、ただ単に自分の安居歴のコンプレックスをさらけ出して弁解しているだけに聞こえてしまいます。
修行が長いからといって、威張る人や自慢する人は論外ですが、修行が長いのが意味がないかのような言い方や、修行が長い方に道心がないかのような、極端な例を挙げるのはおかしいと思います。葬儀にリベートだの、法事をしない布教師だの、そんな具体性のないあやふやな例を挙げて宗門を貶めるのはいい加減にして欲しいです。
修行も長く、立派な方もたくさんおられますよ。
どうしてこの掲示板に集う方々は、人の良いところを見ないでごく一部の悪い例ばかりを取り上げてそれがまるでたくさんいるかのような書き方をするのでしょうか?
不謗三宝戒に反すると思いますよ。
ましてや「本題」に戻す、などという言葉遣いは安居の問題と他の問題に差をつけている意識が見え隠れします。改革に、本題も余題も無いと思うのですが。
>もう、そろそろ本題に戻しませんか。
投稿者:
大閑道人
投稿日:2009年11月 5日(木)17時53分12秒
同感!
安心を求める
投稿者:
仏陀の弟子
投稿日:2009年11月 5日(木)17時18分13秒
世の中の、サラリ−マンの方々それぞれが余程ご修行されている。
お山に行くだけの安居歴より。禁戒より自己が護れるか否かが寛容。
暴力をふるわれて、在った、無かったより。自己が護る精進、するかしないかが肝心。
「修行」には「卒行」がない。終わりのない行を修めるのが修行である。
葬儀社にリベ−ト払い、こつこつと数を増やして、
年忌に行かない、葬儀以外は出ない様になる布教師様。
葬儀社に組合を作り、日々葬儀のみを執り行う宗務所職員様お忙しい事でも。
一檀信徒や社会から求められる佛弟子として、しなければならい事が在る。
「一箇半箇」人の半分であっても、一人前に匹敵する存在。それが「半箇」である。
僧侶として人々に按針を示して、佛の戒めを説く事である。
自分自身が点し続けていかなければならない、法の戒めを護る事である。
そのための僧、お仲間を廻らして、僧の戒めを共に育む事である。
臨んで産まれる時より有り難いご縁に、僧侶の命を宿していただき、
己が進んで選んで、生まれてきたであろうこの道を、佛道を。
親や、周りの宿縁によって継がされる、跡を任されると、
勘違いしない様にしていただきたい。
佛道を求道するもしないも、己が徳行に係わっている。
もう、そろそろ本題に戻しませんか。
宗教とは
投稿者:
匿名地方副住職
投稿日:2009年11月 5日(木)16時22分39秒
一檀家様
貴方は御仏(お釈迦様)の教えを信じますか?
匿名地方副住職様
投稿者:
一檀家
投稿日:2009年11月 5日(木)15時53分54秒
学の無い私に、宗教とは何か、わかりやすく教えてください。お願いします。
地の声師へ
投稿者:
田舎の若輩僧
投稿日:2009年11月 5日(木)15時52分22秒
編集済
この度の発言に対し厳重なご指摘またご意見を頂戴しありがとうございます。
まだまだ私には重々勉強しなければならないと考えさせて頂きました。
また、私はいつもいじめられる側ですが、いじめられる側としていじめられるまま放置されるのでしょうか?私個人の話としてで恐縮ですが地の声師はどう対処すればとお考えでしょうか?
この掲示板を見ていただいている皆様に、この度の投稿は誠に遺憾であると思われた方が多数いると思われます。まだまだ心を入替えこの問題の勉強をさせて頂きます。
この度は、誠に申し訳ございませんでした。地の声師はじめこの掲示板全てに謝罪いたします。
最期に私はいじめられてばかりの人生で終わりたくありません。
宗教には必ずよりどころになるものがあるのではないでしょうか?
私自身若輩僧にしてまだまだ日々修行の身です。
諸老師方からのご指導のお陰で少しは生きるということを学ばせて頂きましたが、今回の投稿で修行とは何かまた生きるとは何かまた深い道に考えて行きます。
皆様ありがとうございました。
一個人としての意見で申し訳ございませんでした。
合掌 百拝
また、この発言は一度消去させて頂いていますがどちらに登録されているのでしょうか?
(無題)
投稿者:
大閑道人
投稿日:2009年11月 5日(木)15時52分3秒
編集済
(この掲示板の趣旨から外れることを承知して・・・)
永平寺でない所でも、普遍を実行する。
そのためには、極度の人工環境において「特殊」を経験する。
そのための永平寺。
右と左があるから、中間があるのです。
安居経験の有無は、真理探究の必須条件ではありません。
永平寺至上主義(本当は、「曹洞宗至上主義」)は、
偏狭を生み、排他主義になります。
真理は、実践するなかに立ち現れます。
たとえば、鍵山秀三郎氏。
イエローハットの創業者。
私の知る限りでは、曹洞宗のお檀家の一人のようですが、
氏の日常と経営者としての姿勢は、
特に、トイレ掃除の実践などでは、
宗門にも太刀打ちできる宗侶は少ないと見ます。
真理?
投稿者:
匿名地方副住職
投稿日:2009年11月 5日(木)14時18分0秒
宮崎猊下は『真理とは、自然に例えれば春に葉を出し、夏に花を咲かせ、秋に実を付け、冬に葉を落とす。これを真理という。』とおっしゃられていたのはお聞きした事があります。
でも、下記の様に『普遍的なことは、永平寺でなくても知りうる。成しうる。』と極端に言ってしまえば、宗教そのものもが必要のない物になってしまうのでは?
真理
投稿者:
大閑道人
投稿日:2009年11月 5日(木)13時10分37秒
編集済
普遍的とは、時間的にも空間的にも制約がない、ということ。
そして、真理であるかどうかは、普遍的であるかどうか、が判定基準。
お山でしか通用しないのであれば、それは普遍的ではないから、真理ではない。
淨土宗であれ真宗であれ日蓮宗であれ真言宗であれ、
もちろん、曹洞宗であれ、どんな宗派にも通底しているものが仏教の真理だ。
曹洞宗にあって淨土宗にないものは、いわば、曹洞宗という地方ルールみたいなもの。
お山のルールも、一つの地方ルールに過ぎない。けっして真理ではない。
私はそう嘯いて安居した。とはいうものの、
「安居歴」はたかだか、永平寺の夏制中のみ。
あまたある地方僧堂のどこかにも、もちろん、總持寺にも、
そして、黄檗にも臨濟にも安居したことはない。
真言宗の修行も、天台宗のそれもない。
(※ 宗門には、臨濟や黄檗での安居歴をお持ちの方もいる。
もちろん、それは宗門では安居歴とはみなされない。
それはそれで、宗門としては正しいのだが、
仏道修行として見た場合、正しいかどうか、それは別問題)
私自身の安居の目的は、資格ではなかった。
永平寺が普遍的かどうか、それを知りたかった。
私が知りたかったものは、安居しなければわからなかった。
安居しなくても知りうることは、安居しなくても知りうる。
だから、普遍的なことは、永平寺でなくても知りうる。成しうる。
永平寺は、問題が極端な形で炙り出されるところだから、
個別を考えることで普遍へと辿り着くこともありうる。
これが永平寺が私に教えてくれたこと。
念のため申し上げます
投稿者:
匿名一地方副住職
投稿日:2009年11月 5日(木)12時36分56秒
11月1日〜2日にかけて投稿させていただいた「匿名一地方副住職」です。
11月5日に数回投稿されている、「匿名地方副住職」師の書き込みは、私が書いたものではありませんので、類似した投稿名ですが誤解無きようお願いします。
暴力問題の捉え方(転載)
投稿者:
地の声
投稿日:2009年11月 5日(木)11時54分53秒
僧堂に於ける暴力問題
「もの申す」で最近ホットなのが、暴力問題である。特に、以下の投稿は、この問題の根深さを明らかにした。
安居と修行
投稿者:田舎の若輩僧 投稿日:2009年11月 2日(月)23時01分45秒
ここ数日掲示板がエキサイトしていて投稿できなかったのですが、本山における修行僧のあり方のお話が出てきたので一言申したいと思います。爆弾発言かもしれませんがあくまで個人としての意見です。
修行中のいじめ問題や暴力問題は全く持って言語道断ですが、私自身本山において一般の方や匿名一地方副住職師や千代川師の言われるような間接的いじめに当たるのでしょうが、同安居同志における意見の相違や性格の不一致によるものでした。しかし、その方と違う寮舎になったらそのような行動はなくなりましたしその後も話が出来るようになりました。
私が今言いたいのは、皆様方がここで言われるいじめ特に間接的ないじめは修行の一部ではないでしょうか?いじめを擁護するわけではありません。私自身その方加者や役寮・維那老師後堂老師等のお陰で自分自身の見えないところを見つめることが出来ましたし、また一段と修行というものが楽しく感じられます。また出来るものなら本山に上がりたいものです。その事柄がなければ、私自身自分勝手なままで何の修行か解らないまま今に至るでしょう。
また、いじめを受けた者またいじめを行ったもの互いに心に得るものがあるはずです。これはいじめを擁護するということではありません。その行為が起きてしまったらということです。
皆様の言われるように現代社会において大学を出て甘い光を味わっていた若者が右も左もわからない中で急には変われないと思います。本山において一日一日修行して他己とのかかわりの中に色々な衝突や合致があって初めて自分を見つめられるのではないでしょうか。
あくまで個人の意見で暴力やいじめ等を擁護したり認めるわけではありません。
私自身が受けた行為も他人から見ればいじめではととらわれるかもしれませんが、全く持っていじめではなく自己を他己によって見つめることが出来た最大の修行です。
もしここで皆さんが問題提起していることが起きているのなら、加者も被者も自己によって他己を見つめ合う修行として乗り越えていくのも一つの修行ではないでしょうか?
私自身そのお陰で檀信徒からのいじめ等も乗り越えられています。
最後に本山において学校社会と同じ事が起きているのでしょうか?
本山と一般社会と同じにしていいのでしょうか?
先日、千代川師に宗門は特別な社会なのかとご返答いただいたのでまたご指摘を受けるかもしれませんが、各寺院は一般社会の中の一法人であることは私自身も心得ています。
しかし、本山も同じ一般社会なのでしょうか?経営においてはそうかもしれませんが、中身を教育として扱うと学校教育と同じ現象が起きてしまうのではないでしょうか?
もっと個々の出家者としての自覚や各力を向上していかなければ将来の曹洞宗の僧侶が不安です。
長々と個人の意見を述べ申し訳ございません。
あくまで一個人の意見です。いじめや暴力を擁護しているわけではありません。
合掌 九拝
暴力は差別と良く似ている。行為者側に暴力の認識があるかどうかが問題なのではなく、被害者側に暴力を受けた認識があるかどうかが大切なのである。つまり、被害者=弱者の側に立たなければ暴力は見えてこないし、また同様の理由で差別も見えない。そして暴力が見えたとき、
「差別問題とは、被差別当事者の問題というよりは、差別する側の問題であり、同和問題は部落外の問題、女性問題は男性問題、障害者問題は健常者問題、在日外国人問題は日本人の問題、子どもも問題は大人の問題であるという視点が大切である。差別による被害者は、直接の被差別当事者だけでなく、差別する人や差別を容認する人もまた人間的可能性をそこね、広い視野で考えれば自らの幸福追求をゆがめられ、結果的には自らの人権をないがしろにすることにつながっているという意味で、被害者である。差別や抑圧を受けてきた人々の人権を守ることが、自分も含めたすべての人々の人権を守ることである。」(大阪府豊中市『人権啓発基本方針』から)
という視点が大切になる。
僧堂暴力否定派が必ず口にするのが、「暴力はない」或いはこの投稿者のように「暴力ではない」という論点だ。前者は論外だが、特にこの投稿者の意見は注意が必要である。「いじめや暴力を擁護しているわけではありません」と何度も断っておきながら、実は、暴力は僧堂の修行のひとつであると、自分の経験を通じて暴力を肯定していることに気付かない。
「いじめを受けた者またいじめを行ったもの互いに心に得るものがあるはずです」
「加者も被者も自己によって他己を見つめ合う修行として乗り越えていくのも一つの修行ではないでしょうか?」
さらに、
「私自身そのお陰で檀信徒からのいじめ等も乗り越えられています。」
と、「打たれ強くなった」ことを感謝するほどだ。暴力をふるう側も受ける側も修行という言葉でくくられてしまうと、これは暴力擁護以外の何物でもない。安心して暴力をふるい、「これも修行だ」と言えばいいのだからたまったものではない。
先の豊中の『人権啓発基本方針』を再度じっくり読んでもらいたい。ここで言う「差別」を「暴力」と読み替えたとき、問題の本質と解決が語られていることが分かるだろう。差別を受けたものは試練だから差別に感謝し、暴力を受けたものは修行だから暴力に感謝するという、ゆがんだ結論を導き出してはならない。
私は「もの申す」に、「いつ、だれが、どこで、どんな」暴力行為をおこなったかを記録し、告訴すべきであると書いた。是非立ち上がってもらいたい。そして僧堂に於ける暴力を日向に出してもらいたい。僧堂はもの言えぬ人間を製造する場ではない。仏教者の信念を築く場である。仏教はそもそも暴力を否定する宗教ではなかったのか。お釈迦さまが必要があれば暴力をふるってもいい、と言った話など聞いたことがない。しかし‥曹洞宗では、実は暴力は長い間容認されてきた。これを私は「禅の暴力主義」と指摘してきた。戦時下では敵を殺すことが救いを与えることであると、まるでカルトと同じことをやってきたのである。忘れるには早すぎる。
話が逸れたが、こう考えると「人権」と「平和」は密接につながっていることが分かる。暴力を否定することは人権を守ることである。暴力を否定することは平和を実現することである。まして「人権・平和・環境」を標榜し、「人権研修」を頻繁に行っている曹洞宗である。仏教者を育成する僧堂に於いて、いかなる暴力も一掃されなければならないのである。さもなくば、田舎若輩僧を多数生産しつづけることになる。彼は、現在の僧堂がつくりだした宗侶なのである。昔の話ではない。宗門改革は形を変えたり規則を変えたりすることだけでは達成されない。曹洞宗の本質にせまらなければ改革は成立しない。その意味でも、僧堂から暴力を排除することに真剣に取り組まれなければならない。
No.1122 2009/11/03(Tue) 07:56:53
http://www2.rocketbbs.com/625/chinokoe.html
は〜〜。
投稿者:
匿名地方副住職
投稿日:2009年11月 5日(木)11時04分20秒
編集済
直ぐにカッカするのはみっともないですよ。
優越感? 安居したことのない宗侶が抱いている劣等感ほどは、優越感なんて持っていませんよ。最低限当たり前の事を勤めさせて頂いただけですから。
押し付け・決めつけは、軋轢を生むだけです。何でもかんでも己の論法が当てはまるとお思いでしょうか?
実体験のない事を語る場合は、聞いた事や想った事で判断するしかないでしょう。それ以外になにか方法がありますか?
私は、実体験のない事は公の場ではなるべく語らないし、意見を求められた時には参考程度に発言するにとどめます。
ご参考になるか・・・ 御山で夜間に抜け出す事を『夜行(やこう)』と言いますが、それ一つ取り上げても全てが悪い夜行とは言えない事は、安居(2年以上位)した者なら解っていますよ。
語る資格がないと?
投稿者:
監視人
投稿日:2009年11月 5日(木)09時10分43秒
編集済
安居経験がない者は安居を語る資格がない、とおっしゃっているのですね。
ただし、「聞きかじりや想像」と決めつけるのは、おやめなさい。あとで、千代川氏の書き込みがありますが、あなたの決めつけは、大変無礼ですよ。
安居に限らず、あなた自身が体験がないことでも語っていることがたくさんあるはずです。胸に手を当てて考えてご覧なさい。
今、問題になっているのは、「御山のルール」なのです。
あなたのその優越感こそ、語る資格がないように、私には感じます。
何故?
投稿者:
匿名地方副住職
投稿日:2009年11月 5日(木)08時58分52秒
では、
御山には御山のルールが有ります。実体験無く聞きかじりや想像で語るのは控えた方が宜しいのでは?
「匿名地方副住職」氏へ
投稿者:
監視人
投稿日:2009年11月 5日(木)08時35分7秒
編集済
千代川氏は、「安居経験はない」と、すでに何度も書き込んでいます。
ログをお読みになればわかります。
あまりしつこいと、嫌味に取られかねませんよ。
安居?
投稿者:
匿名地方副住職
投稿日:2009年11月 5日(木)07時32分43秒
失礼します。
千代川老師は安居歴有りましたか?
愚見
投稿者:
匿名一地方副住職
投稿日:2009年11月 2日(月)18時47分45秒
連日の投稿失礼いたします。
千代川老師の御垂誡の通り、感情的にならないように今後気をつけたいと思います。
また、千代川師の書かれている安居の問題について、恐れながら少々愚見を述べさせていただきたいと思います。
まず、師がおっしゃる冒頭の一文中の、「酒、女」についてですが、これは千代川師も書かれているとおり、完全に僧堂側は認めていない行為であり、特に、道場を抜け出して街に行って酒を飲んだりそうした店に行く者などというのは、私の知る範囲ではごく一部の極めて特殊な修行僧に限った行為だと思います。
確かに、数年に一度そうした行為が発覚することがあると思いますが、当然厳罰に処されていますし、場合によっては下山処分になる場合もあります。
そうした行為をする者は、ごくごく一部なのだ、ということを忘れて欲しくないし、私の意見では、それらまで僧堂の責任にされてしまうのはどうなのだろうか、ということなのです。なんだか、一生懸命過ごした道場を、そんな軽い言葉で汚してほしくありません。
重ねて申し上げたいのは、そうした行為をあたかも週刊誌の見出しのようにバーンと衝撃的に掲示板に書くことによって、ほぼ99パーセントのまじめな雲水まで、そうした行為をしているかのごとくに誤解されるのが耐えられないのです。
道場を抜け出して街に行くなど、私が安居した道場(本山)に関する限り、同年代にはたぶんいなかったと思います。(私が知らないだけかもしれませんが、おそらくあの睡眠時間で外に行って飲むことなど、時間的に無理だと思います。)
また、千代川師が指摘されているように、古参から上下関係の立場を利用して陰湿ないじめや時には暴力的指導が行われることは、悲しいことですが実際には根絶されていないのが現実だと思います。
ただ、私が思うには、これは個人の問題も当然あるし、僧堂の責任問題もあるのですが、もっとそれ以前に、修行道場のシステム自体に問題があると思うのです。
話をわかりやすくするために極論を申しますが、仮に道元禅師の時代のように、純粋な修行だけをおこなうことができる道場なら、上下関係も暴力もきっと起こらないと私は思うのです。しかし、今の時代は道元禅師の時代とは違う要素が多すぎるのが一因だと感じます。
一つ例を出せば、私は修行中つくづく感じたのですが、道元禅師の時代には、参拝者が本山に団体でお参りに来たり、供養の法事を申し込んだり、ということはおそらく無かったと思うのです。
もちろん、それはそれで意味があることだし、その対応をするのも作務の意味でありがたい修行なのはわかります。
しかし、私の経験上、暴力問題やいじめの問題は、忙しい寮舎で起こりやすいということなのです。たとえば、今日は300人の団体参拝者が宿泊するぞ、となれば当然、それを泊める担当部署は部屋の準備からお茶の用意まででてんてこ舞いになるし、料理を作る部署や受付なども忙しくなります。
さまざまな資質や性格の者が道場に集まる以上、能力に差が出るのはしかたありませんが、そうした限界を超えた忙しさが続くと、どうしても、皆の足を引っ張る者やミスをする者、あるいはさぼろうとする者が出てきます。
もし仮に、皆が坐禅と読経だけをして修行できるような道元禅師の時代のような道場だったら、たとえば坐禅中に腰が痛くなって休む者がいたり、お経を覚えるのが遅い者がいても、それは他の人にあまり関係がないので、無理をさせる必要もなく、「ああ腰が痛いなら休みなよ、お大事に」とか「お経なんてゆっくり覚えればいいよ、人それぞれだしね」という優しい心でいられるでしょう。
しかし限られた人数で、さきほどの例のように忙しい宿泊者対応を行う場合、そんなことは言っておれません。
誰かさぼっていたら「まあ、あいつがさぼっているのは俺には関係ない、俺は一生懸命修行するからいいんだ」なんて言っていられないのです。
時間通りに食事が間に合わなければ困るので、当然先輩からは「おい!何さぼってるんだ!」と叱られることになります。
あまりにふざけた者は、罰を受けたり説教をくらったりするわけです
もし仮に、先輩からの注意がなければ、今度は同安居同士で注意しあうしかなく、これも暴力事件の原因になります。
さらに難しいのが、単に能力の差であれば、「まあ、あいつも頑張っているんだからのろいのはしかたがない、その分俺たちがフォローするか」と言う気にもなるでしょうが、たとえば「俺は資格を取るために上山したんだから、こんなことやってられない、適当に手抜きするからよろしく」みたいなやる気の無い者や、何度教えても覚えることができない者もいるのです。
当然仲間同士でも、先輩後輩の間でも問題になり、トラブルの原因になります。
役寮が指導すれば良いのですが、忙しい日が続けばいちいち細かいところまでは目が届かない場合も多いのです。
仮に宿泊対応の公務がなければ、そうしたやる気の無い人がいても、自分の修行とは関係なく済ませられるでしょう。(そうした者を改心に導くのも慈悲心だとは思うのですが)
実際に修行の現場では、いきなり上山して右も左もよくわからない人でも、道場の一員として、道場を運営するための業務にいきなり就かされるところに問題があるのではないでしょうか。
「道元禅師の教えでは・・・」という言葉を良く聞くのですが、道元禅師の時代にはなかった要素が修行道場に多すぎるのです。
もちろん、そうした作務も大切な修行なのはわかります。しかし、それが原因で暴力や仲間同士のいじめなどが起きるのであれば、いっそのことそうした寮舎は撤廃し、純粋に僧堂修行だけを行えるような本山に改革するのも一つの案だと思うのです。
他宗派の本山のように、受付や宿泊対応、調理などは外部のプロ(従業員)に完全に任せるのも一つの案だと思います。
あるいは、上山して2年くらいまでは衆寮と接賓、知殿寮と堂行寮だけにして道元禅師の時代と同じような修行ができるようにして、更にそれ以上の寮舎のノウハウを学びたい者だけが、本人の希望制で典座寮や受所、茶頭などに転役できるようにすればよいと思うのです。ある程度僧堂に慣れた古参ばかりで、しかも希望制であれば、忙しい寮舎でもトラブルは起きにくいと思います。
あくまでも未熟者の一意見です。おみぐるしいようなら削除してください。
お願いです
投稿者:
千代川宗圓
投稿日:2009年11月 2日(月)16時55分54秒
お願いです
「地の声」氏や様々の方がこの掲示板をご利用なさる事にあれこれ申し上げません。ただし、感情的にならず冷静に対応できないものでしょうか?
この掲示板は多くの方々がご覧になっております。必要以上にアジテイトするような表現や言葉を使用する事は私には理解に苦しみます。多くの方々も同様に思われることでしょう。
特に、「地の声」氏のブログや掲示板を拝見すると、同じ改革という言葉を用いられても、「私の求める改革」と「氏の求める改革」には大きな違いがあるように思えます。
この掲示板は曹洞宗の組織や行政、宗議会等に関する問題を中心に扱っております。それぞれに独自の考え方があるのは当然にしても、「固有の思想」に関しては、場所をかえて行って頂きたいと思います。
2チャンネル掲示板の様相にしたくないと、私も監視人も考えています。
もし、この掲示板で固有の思想について述べたいのならば、実名で投稿して頂きたいと思うのです。
いくら重要な問題を提起しても、表現の仕方で意味合いが違って参ります。
上記の事を留意して、今後も投稿して頂きたくお願い申し上げます。
合 掌
安居の問題について
投稿者:
千代川宗圓
投稿日:2009年11月 2日(月)16時50分26秒
安居の問題について
「暴力、いじめ、酒(宴会)や街へ女を買いに行く雲水……」、これは、永平寺に安居した方から10月24日にブログに投稿されたものです。
これらの行為は、本山でも各地の専門僧堂でも宗務庁でも認めておりませんし、特に人権を重大テーマとしている宗門において許されるべき問題ではありません。
しかし、現実にはこのような事はあると思いますし、実例も存在しており、多くの宗門人はこれらの現実をご存知であると思います。
永平寺での修行は厳しく、そして高尚なものとしてNHKテレビなどで特集が組まれたりしており、一般の方々は「厳格で素晴らしい」などと理解されております。多くの方々のイメージとして修行は美しく映っております。
それでは何故、学校を卒業した寺院の子弟の中には修行のために安居をする事を「懲役」と称して嫌がる者がいるのでしょうか? まさしく「懲役」という隠語が物語っています。
「暴力やいじめ」を認める者も組織もありませんし、修行中に飲酒や買春行為を行うなど論外な行為であります。
しかし、「宗門人でこんな行為は100%ない」、と断言できる方は居るのでしょうか?
暴力行為は古参の修行僧から新人の修行僧に対し行われると聞きます。
これは古参自ら直接的な暴力行為を行うのではなく、「陰湿ないじめ」による間接的な暴力であり、本山や僧堂において伝統的に行われているものではないでしょうか? ほかにも、精神的暴力というべきパワハラもあるようです。
たとえば、お経が上手に読めない、法衣の着方や作法が覚えられない、法堂作法が上手にできない等々から始まり、言葉の使い方や口の利き方から食事作法に至るまで細々とした物事に欠点を見出し、それらを「口実」として、“指導”という美名のもとに、現実には暴力が行われているのではないでしょうか?
教育される側も指導者の人格や個性を見抜く力量もある訳だし、それが本当に教育や指導であるなら受け入れられると思います。それなのに、なぜ受け入れられないのか。
過去に、このような例がありました。
古参と新人の間に、物事や修行に対する価値観の違い等があり口論となりました。古参は論理的に新人に敗れた。翌日から古参グループはその新人に対し、反省を促すという目的で正座や座禅を長時間させるという行為に出たのです。
その新人は身体的障害が生じてしまった。間接的ではありますが、暴力に違いはありません。
又、古参のいじめから新人は恐怖と肉体的苦痛から精神障害を患う者まで出ています。
以上はほんの数例に過ぎませんが、理不尽とも思える修行から逃げ出す雲水も多くいるように思われます。
修行という美名のもとに人間として行ってはならない事をしている。そしてその新人も、一定期間を乗り越えた者たちはサディスティックなまでに同じ仏道修行を求める者に対して「いじめ行為」を日常的に行っている。このようなケースが全てであるとは思いませんが、「愛語」という精神はどこに存在するのでしょう?
新人は、本当を修行をしたいのに、直接あるいは間接の暴力によって、修行をさせなくしているです。
今の安居制度の大きな問題は、「教師資格」の取得に必要な制度として機能していると言ってもいいでしょう。
修行本来の目的はこんな事ではないはずである。宗門には、このような形式主義が横行しています。
本山や僧堂において本来の仏道、本来の僧侶としての道を教育しているのかと疑問を持ちます。これらの事は「宗門のタブー」なのかも知れません。
しかしこのタブーに関しても討議なされる時代が到来したともいえるでしょう。
古参の修行僧に聞くと、自分達が新人の頃は古参に同様に扱われたと言います。だからといって、暴力を認める理由にはなりません。それが伝統のように思われている現実に私は残念であると思う。このような事を修行と道元様は教えてはいません。
さらにいえば、修行本来の姿に改善できない役寮を始めとする指導者にも問題があります。
現代の若者論を述べている方々もいるが、生活様式が変化した21世紀に正座が出来ないから基礎体力の低下などと言う事はいかがなものでしょうか? いじめに耐えられるのが、「基礎体力」などと考える宗門人は、よもやいないでしょう。
各寺院でも洋風の生活になっているのです。
修行とは人間教育や精神教育の場であって欲しいし、社会に役立つ宗侶を育成する場であってもらいたいと思います。そして立派に布教できる人材を育成して欲しい。
教師資格についても、それは一生ものであってはならない。なぜなら安居生活を終えても、その後に僧侶として相応しくない行動を行っている者もいるではないでしょうか?
今や一般社会でも永久資格であった教員、医師、弁護士の「資格」についても、その制度の有り方について検討が始まっています。
世間の一般の方々は、修行を終えて来た僧侶をある意味で尊敬し、その布教に期待している方々が多いと思えるが、本当に人間性や僧侶として教育されて帰ったのか?
法堂作法やお経の読み方等々の形は出来上がっても、人間として成長していない宗侶が多く見受けるのは私だけではないと思います。
又、修行中の反動で安居終了後、その開放感から一般人には考えられない行動をする者も居ます。これが修行をした者の姿なのかと思う事もしばしばです。
生きている間全てが修行だと、私は思うのです。
守るべき伝統は守るべきと私は思います。しかし、改善されるべきものは改善し、時代に合った制度を宗門は確立すべきであると思います。
合 掌
大教師殿(宗費と檀徒数の投稿について)
投稿者:
千代川宗圓
投稿日:2009年11月 2日(月)11時07分42秒
編集済
貴殿の投稿は、ごく当たり前のご指摘であると思います。
各寺院の収益事業には必ず国税が発生します。国税が発生する場合、税務申告が必要となる事は当然の道理であります。
又、都市部の寺院には各税務署が税務調査を行っており、宗教活動の収入が寺院会計に反映されているかどうか厳しく調査する体制が確立されつつあり、寺院の住職や寺族に対する人件費計上についても調査されています。
これは一般社会と比較すれば当然の事であると思われます。
私は税務調査の対象となる寺院は、(収益事業を営むか営まないかを区別せず)税務申告書のコピーを毎年宗務庁に提出させ、そこから宗費の算出をしたら良いのではないかと思います。
このような手法も一つのアイディアであります。現在のような宗務行政では正確な檀信徒数を掌握する事は無理であるからで、(申告する側も正しく申告していない)檀信徒を基礎とする宗費徴収は限界に来ております。
宗費に関する徴収システムや級階査定方法は、抜本的に改革すべきと私は思います。
又、宗務庁内部に宗費徴収システムを改善する特別チームを外部の専門家チームも入れ設置し、不平等感の無い制度を検討させるべきでしょう。もうその時代は到来していると思います。
そして人口が減少している地域などの寺院には、宗費優遇措置を講じて過疎化対策の一環として実施すべきではないでしょうか?
国の税制でも不平等感があってはならないし、我が宗門の宗費についても同様な事が言えると思います。私は宗門人の多くが宗費徴収に関し不平等感を感じていると思うし、国の税制は時代に適合したものを議会において検討し決定するが、曹洞宗にも文化庁が言うように、自治権(治教権)なるものがあるなら、宗議会において旧来の手法を改め、時代に合った宗費徴収システムを確立すべきと考えるが、果たして今の宗門、宗務庁、議会にその能力があるのか疑問を持つのであります。
現在の宗議諸氏は予算書、決算書を正確に理解できない方が多いと聞きます。
このような方々に宗費徴収システムの制度改革に期待はできませんが、今や宗門は全ての分野において見直すべき時期がきており、宗門の近代化を計らなければなりません。宗門内部の方と外部の専門家からなるチームで「宗門の近代化」検討チームを立ち上げなければならないと思います。
これは曹洞宗という組織体制を維持するための宗費徴収システム始め、様々な制度の見直しを行い近代化するという提言であり、今後も旧態依然としたままでの組織や体制で宗門運営がなされた場合、宗門の未来は決して明るいものではないと思います。
合 掌
山下氏問題にもの申す
投稿者:
一員より
投稿日:2009年11月 2日(月)09時24分34秒
今回の山下氏処分の報を耳にして、ほとんどの宗侶の方は
思ったのではないだろうか?
なぜ、
不正会計事件の被告諸氏が処分されていないのに、
山下氏だけが処分を受けねばならないのか?
原因と問題こそ違えども、故O氏の時代から悪政の温床であった
旧××課に留められいいように使われ、挙げ句の果てには
半ば責任をとらさせる形で左遷された職員を、
私は何人も知っている。
職員側の立場から見れば、まさにとかげのしっぽ切り。
山下氏よりも何倍もの苦渋を味わっている職員は大勢いるのだ。
山下氏の事件で露呈したのは、まだ曹洞宗は何も変わっていないということだ。
一部の平職員だけが罪をかぶり、罰を受けるだけだ。
不正会計事件に関与した者が、
裁判の判決が出る前に、宗内での処分・処罰を受けることがなければ、
曹洞宗は永遠に変わることはないし、この先この宗派について行く者も
誰もいないだろう。
朝日新聞より
投稿者:
新聞読者
投稿日:2009年11月 2日(月)06時32分16秒
価値などは、人間がグループを作る上の指導的なものに過ぎない(狩野亨吉)
21.10.31 土曜版 より
この誌面、同じく「勝間和代」シリーズには次のタイトル
「批判は、認められたい欲求の裏返し」
なお、本日の朝日新聞のタイトル
「セクハラ根絶へ大学摸索」を「暴力根絶へ僧堂摸索」と読み替える。
風林火山八王子さま お詫びいたします
投稿者:
匿名一地方副住職
投稿日:2009年11月 2日(月)00時03分57秒
夜分失礼します。
風林火山八王子さまの書き込みを拝見し、私の未熟さをあらためて自分自身痛感しました。
こちらこそ失礼な物言いをしてしまい、誠に失礼いたしました。
謹んでお詫び申し上げます。
貴方様の書き込みに他意はないことはよくわかりました。
ただ私が言いたいことは、こうしたお檀家さんも含めた一般の方が閲覧できる掲示板という場で、あたかも曹洞宗の修行道場で暴力が公然と、道場公認のもとで行われているかのような誤った書き込みがなされていることに、失望と憤りを感じ、それは明らかに違う、と一言言いたかっただけなのです。
一時代前には、確かにそれに類する行為があったと思われますし、私自身理不尽な体罰も受けました。しかしそれは私が修行した時点でさえ、すでに道場では厳しくいじめや体罰は禁止されており、そうした行為は決して曹洞宗が公認しているわけではないのです。そうした過ちをなんとか根絶しようと、多くの役寮老師が苦労なさっているのです。それでも事件が後を絶たないのは悲しい限りですが、決して暴力を推奨したり放置したりしているのではないということだけを、一般の方に分かって欲しいのです。
私が信仰する曹洞宗を公然と貶め、事実に反するような書き込みをされて、黙っていられませんでした。
実は最近うちの檀家さんから、息子が引きこもりで困っているので、お寺でビシビシと叩いて鍛えてほしい、と頼まれたことがあります。
私は少々おどろきましたが、聞いてみると、その方はお寺の修行といえば棒で叩いたりゲンコツで叱ったりするものだとおもっていた、だからうちの息子をショック療法にかけたいので一つ厳しくぶっ叩いて欲しい、というのです。
私は、いやいやそういうイメージもありますが、今は人権尊重の時代です。お寺だからといってぶん殴ったりしないのですよ、と、本筋とは違いますがその誤解を解こうと必死で説明しました。私自身、お釈迦様の教えと、体罰指導は相容れないものだと思っていますので、お寺の修行は体罰教育、という誤った認識が世間に広まるという悲しい事態をなんとかしたい、と思っているのです。
そして、修行中にお世話になった老師や先輩で、現在修行道場で役寮をしている方数人に電話で相談し、話を聞いたところ、本当にいろいろとそうした指導の方法で苦労している、と聞いたばかりだったので、ちょうどそう言う話題がここで書かれていたため、黙っていられませんでした。
逆に私は、この掲示板を見ている宗侶各位に問いたい。
実際とは違う誤った情報が、あたかも本当のように書き込まれて、わが曹洞宗がおとしめられていることを放置していて本当に良いのですか?
私一人がいくら抵抗したところで、ここをみている檀家や一般の方は、どう受け取るかわかりません。
しかし数人の方が、それは違う、と書き込めば、閲覧者も誤解せずに済むのではないでしょうか。
いつもは見ているだけかもしれませんが、こんなときこそ、一言でいいから何か書き込んで、曹洞宗の名誉を守ろう、と考える志ある方はおられないのでしょうか!
あえて書かせていただきます。
投稿者:
風林火山八王子
投稿日:2009年11月 1日(日)23時45分10秒
編集済
匿名一地方副住職 様
ご返事ありがとうございます。
私が言いたいのは、匿名一地方副住職 様が仰るように、誰も現場の方々がまったく努力をしていないなどと現場を知らない物が言うことではないと思います。
当然ながら、ほとんどの皆さんが一生懸命されれ居られることだと思います。
でなければ、この様に長い歴史が曹洞宗には無かったと思います。
また、匿名一地方副住職 様が仰るように、現代の若者は、社会においても師弟関係の礼節を心得ていない方が多く見受けられるのも事実だと思います。
その様な方々の教育の大変さも承知しているつもりです。
その中でも、時に人間関係の中で問題が生じやすいのも事実です。
すべてに渡って私的感情をなくして行動されることなど、不可能だと思います。
ただ、教育現場では、相手を攻めるのではなく、自分自身を如何に抑える事が難しいかと言いたいのです。
それでこそ、いじめなどがなくなる一歩だと思っております。
自分の書き込みにおいて書き方が下手なので匿名一地方副住職 様には不愉快にさせてしまった様でお詫びいたします。
>「また、修行僧を育成する方々は、自分自身をより高い世界で導かれることを望みます」などという言葉は、現場をご存じない方の、あまりにも慈悲心に欠けた悲しい書き込みに思います。
と言うことは、自分自身、高校生の時からお世話になった比叡山延暦寺の葉上照澄大阿闍梨のお話の中で、「生きている間日々精進で若い方とお話しする事で、自分自身の勉強にもなります。」と言う温かいお言葉を戴いたことは今でも忘れません。
宗派は違いますが、自分は今でも心の師と思い、お教えいただいたことを一つでも出来ればと心に留め、生きております。(恥ずかしながら、実生活では中々その様に生きれていないのが事実です。)
自分が言いたいのは、教師と言う大変なお仕事をされておられる立場の方も、現状に満足せず、
より一層がんばっていただきたいと言う応援の願いから書き込ませていただいたものであり、
その結果が素晴しい人材を育てるという結果を実感されるよう書かせていただいた次第で、
決してその方たちを非難しているのではないとご理解いただければと思います。
監視人さん申し訳ありません
投稿者:
匿名一地方副住職
投稿日:2009年11月 1日(日)23時04分24秒
これ以上書くと、また監視人さんから「そんな個人的なことは地の声師の掲示板でやるように」とお叱りを受けると思うのでこれで一区切りにしますが、
どうして私が懺謝に行くのが曹洞宗の改革の日となるのか、やはりあなたの思考は常人には理解できない構造のようです。
私が懺謝に行くことは万一にもないでしょうが、半分嫌味を込めて、もしそんな判決が出れば懺謝に行きますよ、ただしそうでない判決が出たら非礼を詫びなさい、という意味で書いた文章なのですよ?
自分の非を全く可能性に入れず、相手が間違えていることだけを前提にものごとを考えるあなたは、本当に恐ろしい人だ。私などはこの掲示版上だけの関係だから耐えられるが、周囲の人を不快にさせていないかと考えると背筋が寒くなります。
笑止(3)!
投稿者:
地の声
投稿日:2009年11月 1日(日)22時17分43秒
あなたが私のところに懺謝の拝に来る日。それは即ち曹洞宗が社会的批判を受けて、ようや
く改革が行われる日となることでしょう。その日が来ることを心待ちにしております。で
は、その日までサヨウナラ。
http://www2.rocketbbs.com/625/chinokoe.html
話の通じない人だ
投稿者:
匿名一地方副住職
投稿日:2009年11月 1日(日)22時02分5秒
編集済
何度も言いますが、私は「宗教法人は超法規的に体罰が許される」ようなことなど、どこにも一言も書いてませんよ?だれが宗教法人は別の世界だ、などといいましたか?
僧堂であっても体罰は許されない、ということを前提にして書いているでしょうに。
しかし、ここまで申し上げても伝わらないのであればやむを得ません。だんだんあなたと論争(論争にもなっていない)をしているのがアホくさくなってきました。
後は、この掲示板を見ている多くの方が判断するでしょう。
ただし、その裁判とやらでもしその暴力事件?が僧堂の主導によるものであり、背景に僧堂の暴力・体罰容認が認められるというような内容の判決が出なかった場合、それなりの謝罪を当掲示板上で行ってくださるのでしょうね?
もし地の声師の言うとおり、本山の暴力容認指導の元に起きた事件であるという判決がでた場合には、私はあなたの御自坊に懺謝の拝に行かせていただきます。
笑止(2)!
投稿者:
地の声
投稿日:2009年11月 1日(日)20時56分53秒
いずれ、裁判で明らかになりますよ。あまり興奮なさらず。宗教法人が別世界であった時代
は終わるのです。
http://www2.rocketbbs.com/625/chinokoe.html
あきれました
投稿者:
匿名一地方副住職
投稿日:2009年11月 1日(日)20時48分4秒
地の声師、あなたは私の投稿をきちんと読んだのですか?何ですか、「笑止」とは?こちらこそ「笑止」と申し上げたい。
私がしつこいほどに「暴力による指導は否定」と書いているのに、どこをどう読んだら
>>それで暴力を肯定するのですね。非暴力はどこへ行ったんでしょう。仏教ではありません。
などと書けるのか、あきれはてて言葉もありません。
誰がいつ、暴力を肯定しましたか???しつこいほど否定しているでしょうに。
暴力が蔓延した時代を反省し、今は新しい指導を模索しつつ役寮諸師が努力しているのが現状です。その中で、いまだ答えの出ない、やる気のない雲水にどう対応していくのか、手探りの状態だ、ということを言おうとしている一文を、「暴力肯定」と無理矢理曲解するのはなぜなのでしょうか?
また、役寮の選出方法についても、タテマエだとか書かれていますが、違いますか?じゃあどういう基準で選ばれているのですか?今どきの僧堂で、たいした衣資もいただかずに一生懸命自坊と道場を往復する真摯な役寮さんをたくさん知っています。まさか貴師は、いまの時代に、役寮がなにかうまみのある地位だとでも思っているのでしょうか?どの僧堂でも、役寮のなり手がいなくて困っているのですよ??
ほとほと呆れましたが、あえて申しますがあなたの性格は少々ねじまがっているのではないでしょうか?
重ねて言いますが、僧堂では現在暴力は厳禁です。隠しているわけでも公然の秘密でもなんでもなく、厳禁なのです。ただ、実際に禁じているにもかかわらず暴力をふるってしまう者がいるのも事実かもしれません。しかしそれは道場が暴力を容認しているわけではなく、禁じているのに起きてしまっているのだ、ということです。
それを根絶するために、教育システム改革も含めて現場では必死で努力している、ということを言っているのです。それを全く否定する地の声師の書き込みに、一言反論したまでです。
また、暴力を肯定はしませんが、一口に暴力といっても、たとえば全く理不尽な役寮や古参からの意味不明な暴力指導があったとしたらそれは大問題です。しかし、たとえばかりに、こういう例はどうでしょうか?
小・中・高と、自由主義の教育方針で育った若者が厳しい修行道場に上山し、慣れない生活をはじめるだけでものすごいストレスです。朝3時に起床し、休み時間もほとんどなく修行にあけくれ、携帯もネットもなく、食事も質素、自由時間はない。僧としては当然なのですが、その環境が苦痛に感じる者も多いことでしょう。
そうしたストレスを抱える者同士が、ちょっとした何かの行き違いで口論となり、仲間同士で手が出てしまったとします。(あくまで、仮にです。そして、暴力は肯定しません)
もちろんその過ちは十分反省すべきですが、このケースを、封建主義から出る暴力指導と同列に論じるのは愚かではないでしょうか?
私は僧堂に籍を置いているわけではありません。しかし現在役寮をつとめている親しい先輩や、修行時代にお世話になった老師などの話を聞いたり目にしたりして、その涙ぐましい努力を知っている者として、反論せずにはいられませんでした。
少しでも曹洞宗に恩や愛を感じているなら、現場をもう少し知ってから書き込んでほしいだけです。
笑止!
投稿者:
地の声
投稿日:2009年11月 1日(日)19時44分19秒
本山や僧堂で暴力行為がないという。いや、やや矛先が鈍ってそれは個人の問題と言う。
>修行道場の役寮(指導者)は、全国の寺の住職の中から能力のある方が選抜され‥
本当にそうですか? タテマエで言ってはいけませんよ。
>人の話を聞かない・周囲との和を考えない・やる気がまったくない者を、どうやって導け
ばよいのでしょう?
それで暴力を肯定するのですね。非暴力はどこへ行ったんでしょう。仏教ではありません。
いずれにしろ、遅かれ早かれ修行道場での暴力行為は司法の場で明らかにされるでしょう。
つまり、「宗教法人は別物」というガードがはずれ客観的に裁かれるということです。仏法
をタテに暴力を肯定するなど、もっての外です。
>現在の各僧堂では暴力は一切否定しています
それはそうでしょう。なんとも言いようがないですね。だから私は「公然の秘密」と言った
のです。
エピソードをひとつ紹介します。
某本山に拝登した時です。同室の宗侶が、徒弟が暴力を受け怪我をしたということで来て
いたのですが、「折角の修行だった。暴力によって菩提心まで失わせることは許されない」
と。
http://www2.rocketbbs.com/625/chinokoe.html
悲しい言葉が続いていますが
投稿者:
匿名一地方副住職
投稿日:2009年11月 1日(日)18時51分37秒
暴力による指導は、いまさらながらいうまでもなく認められる余地がないことは明らかです。過去に過ちが起きたこともありますが、現在は宗門をあげて反省し、人権尊重の僧堂教育に本山をはじめとする各僧堂で努力を積んでいるのが現状です。
地の声師の書き込みは、そうした各僧堂の担当者や役寮の努力を一蹴する失礼千万な内容だと思います。現場をどれだけご存じなのでしょうか。もし現場の苦悩を少しでもご存じなら、とてもあんなことを書けないと思います。実践者を理念や観念で否定するのはたやすいことですが、仏教者たるもの、いまだ未熟ではあっても理想に向かって努力している者を軽んじたり誹謗したりすることは許されません。
一体、どこの僧堂が暴力主義だというのでしょうか?いまどきそんな僧堂があるのなら具体的に名を上げてほしいものです。(上げようにもないですから)
風林火山八王子氏がおっしゃることは、一般論としてはまったくその通りだと思うのですが、修行道場で暴力事件が起きてしまった場合、当然僧堂や役寮にも監督責任がおよぶことを十二分に承知した上で、そうならないように万全の指導を行っているのが現状なのです。
それを、あたかも対応が不十分で、責任逃れをしてみてみぬふりをしているかのように捉えられてしまったのでは、現場で努力している大勢の関係者がかわいそうです。
そう感じたからこそ、 智(慧)の声 師は異論を書き込んだのだと思います。
断言しますが、現在の各僧堂では暴力は一切否定しています。
ただ、それでもなおかつ大勢の修行僧が集まる道場では、間違いが起きてしまうことがあるのです。これは道場に限らず、一般社会でも同様だと思います。
それが全くなくなるように願っていますが、なかなかすぐにそうした理想の状態には達しないのは悲しい限りです。(あきらめているわけではありません)
また、万が一修行僧同士で暴力事件が起きたとして、それをなんでもかんでも「組織の責任」に結びつけるのはどうかと思います。管理責任の範囲内であれば、どの僧堂のどの役寮でも、しっかり修行僧を見守っているでしょうが、得てしてそういう事件というのは、しっかり監督していてもわからないように行われたり、突発的に発生するものです。
もちろん、それでもなおかつ役寮の管理責任や僧堂の責任は発生するし、責任逃れを推奨するつもりはありませんが、それにしてもその責任の全てを負わせるかのような風潮は、私は疑問を覚えます。
もし、暴力が日常に行われているのを知っていて見ぬふりをしていた役寮がいたら、それは当然管理責任を問われるべきだと思いますが、日頃から暴力禁止をしつこいほど口にしていたのに、寮内の修行僧が暴力事件を起こしたとしても、役寮の責任だというのでしょうか?
私にはそれは役寮に対する過度な責任追及であり、けっして良い結果を生まないと思います。
すでに随分昔から、学校教育の現場では、生徒が教師を敬わない、授業中にゲームをしたり雑談をしたり・・・という学級崩壊が問題になっています。それはさまざまな原因があるのですが、その一つに、「過度な平等主義」の弊害があるのではないでしょうか。
決して、階級社会や封建主義を美化するつもりはありません。しかし、教師と生徒の間には、しかるべき立場の違いがあって当然だと私は思います。(身分ではなく、立場の違い、とあえて申します)
それが近年、僧堂にも蔓延しつつあるのは現場役寮諸師から伝え聞くところです。
監督責任も指導もなにも、それ以前の状態の修行僧も現実に存在するのです。人の話を聞かない・周囲との和を考えない・やる気がまったくない者を、どうやって導けばよいのでしょう?
そんな中で、役寮諸師は精一杯頑張っていると思います。まさに滅私奉公の血と汗をながしておられる現場の役寮さんを知っています。
それなのに、風林火山八王子氏が書いた「また、修行僧を育成する方々は、自分自身をより高い世界で導かれることを望みます」などという言葉は、現場をご存じない方の、あまりにも慈悲心に欠けた悲しい書き込みに思います。
死にものぐるいで頑張っている方に、その努力を知らない人が「もっと頑張らなきゃダメだ」とサラリと言っているようなものではないでしょうか。
曹洞宗の現在のシステムでは、修行道場の役寮(指導者)は、全国の寺の住職の中から能力のある方が選抜され、任期の間自分の寺と修行道場を掛け持ちして成り立っています。
どうしても自分の寺で法要や葬儀があれば、その間は寺に戻らなくてはなりません。そうした留守の間に起きた突発的な暴力事件などまで、すべて役寮の責任だといわれるのなら・・果たして役寮を引き受ける人がいるでしょうか。
おそらく、よほど自分の寺が忙しくない方しか就任できなくなるでしょう。現状では、四六時中監督しているわけにはいかないのです。
もし仮に、自分の寺と兼務せず、修行道場の指導役はそれ専門の方を育成し、終身修行道場で指導を続けられるようなシステムができれば、よりよき指導体制ができあがるかもしれません。(現実には難しい問題がたくさんありますが・・・)
修行中の暴力問題に関し、一般人の捉え方として
投稿者:
風林火山八王子
投稿日:2009年11月 1日(日)09時28分50秒
編集済
智(慧)の声さんの仰っておられる
>組織の体制が暴力事件を生み出す温床となっているのではなく、
>あくまでも一部の修行僧の志の欠如と意識の低下により生み出される負の事例なのでる。
と言う様に個人の資質の問題に逃げるのでは、根本的問題は解決しないと思います。
「暴力主義」を容認している社会など今の日本には無いと思います。
一般社会の中では、その様な場合の最終責任は、その組織とその個人にあると捉えられています。
(子供が起こした事案では、親の監督責任まで捉えられます。)
過去の裁判事例を見ても、その組織始まって以来初めて起きてしまって事例においては、
組織の管理体制を斟酌することは間々あるが、
何回も起きているような事例の場合においては、組織の管理体制の問題の方が大きく捉えられているのが現実社会であります。
また、修行中の暴力事件ではありませんが「いじめ」に似た人として恥ずべき行為は
一般人の私ですら今でも時に耳にします。
暴力事件はこれの延長線上にあると思います。
本来ならば、智(慧)の声 さんのお気持ちのように、そのような事は有ってはならないし、
有ってほしくないと思うのは当然の事と思います。
檀家の立場でも聞きたくもありません。
>宗門は一昔前の反省を踏まえ、今や本山や地方僧堂で暴力事件があった場合には、
>まず行政府である宗務庁への報告義務があり、
>決してそれらを隠蔽・容認するような組織体制にはなっていないはずだ。
と言うことは、過去であっても現実にその様な事案が多々有ったと言うことだと思います。
>また立法府の機能が僧堂査察を定期的に行っている現実もある
の箇所で、智(慧)の声 さんがいみじくも仰っている様に
>これが現実的に機能しているか否かの検討は為されるべきである
のように、本当に機能させることが大事だと思います。
子供社会の中で、いじめは社会問題でありますが、
それ以上に大人社会でのいじめは醜い物です。
子供たちはその様な事をよく見ている物と思います。
自分に自信が無いから、自分より弱い立場の人をいじめ自己満足にしたっている事など、
まだまだ修行不足の何者でもないと思いますし、
その様な事案を見過ごすなどもってのほかだと思います。
裁判沙汰などに成らない様、早く根本的問題を洗い出し、解決の道筋を立ててほしいですし、
安心して本来の修行の道で頑張って頂き、早く社会の役に立つ心の温かいお坊様になっていただきたいと思います。
また、修行僧を育成する方々は、自分自身をより高い世界で導かれることを望みます。
地の声氏へ
投稿者:
智(慧)の声
投稿日:2009年11月 1日(日)00時24分20秒
まず言葉の使い方に慎重になってもらいたい。
まるで「宗門」全体が「暴力主義」に徹していて、
それを「公然たる秘密」としているような物言いは慎む
べきである。
被害者の当然の権利として、「両本山及び地方僧堂を
告訴する具体的な事例が欲しい」という貴殿の主張には
口を挟まないが、「宗門の暴力主義は公然たる秘密」と
言い切ってしまうことへは一言物申したい。
宗門は一昔前の反省を踏まえ、今や本山や地方僧堂で
暴力事件があった場合には、まず行政府である宗務庁へ
の報告義務があり、決してそれらを隠蔽・容認するよう
な組織体制にはなっていないはずだ。
また立法府の機能が僧堂査察を定期的に行っている
現実もある(これが現実的に機能しているか否かの検討
は為されるべきである)。
組織が貴殿の言う「暴力主義」を容認していない以上、
もし不慮の事故・事件が起きた場合には、その組織の管
理責任は問われることがあっても、最終的な責任はあく
までも当事者(加害者)個人の質に帰する問題だと考える。
それが「曹洞宗にもの申す」のコメントにあった「修
行僧(寺院子弟)の人間的な基礎体力が余りにも低すぎ
る」という指摘の意味だろう。
現在の僧堂における暴力事件の有無の問題を、まるで
組織が公然たる秘密としているような言動には慎重に
なってもらいたい。
これは曹洞宗と両本山僧堂の名誉と、今までの組織改
革の努力を無に帰さないためにも明記しておく。
組織の体制が暴力事件を生み出す温床となっている
のではなく、あくまでも一部の修行僧の志の欠如と意識
の低下により生み出される負の事例なのである。
欲しい具体例
投稿者:
地の声
投稿日:2009年10月31日(土)19時56分39秒
宗門の暴力主義は公然たる秘密です。両本山及び地方僧堂を告訴する具体的な事例が欲しい
ですね。これまではうやむやにされてきましたが、今後は意を決して、修行に名を借りた暴
力行為を個別的に(何時何分・誰が・どこで・なにを・だれに)証拠として提出すべきでし
ょう。
これは「宗門改革」の重点項目です。
http://www2.rocketbbs.com/625/chinokoe.html
(無題)
投稿者:
Zen
投稿日:2009年10月31日(土)19時11分5秒
それが本当であれば由々しき事態ですね。
当事者には厳しい処分が下されて当然です。
以前同じような問題で宗務庁に問い合わせをしてみたら、そのような事態が発覚した場合には厳正に対処しているとのこと。
それは両本山とて同じことです。
過去にも実際に処分を受けた人間がいると聞いたことがあります。
その意味では、安居教育というシステム上の問題よりも、一部の修行僧の質が著しく低下しているということではないでしょうか。
指摘の通り、修行僧(寺院師弟)の人間的な基礎体力の低下が原因でしょう。
私の知る限り、多くの修行僧はまじめに修行してます。
一部の修行僧のために、修行僧全員が否定されてしまうことは悲しいことです。
本山がそれらを容認しているということは間違ってもないと思います。
本当でしょうか?
投稿者:
監視人
投稿日:2009年10月31日(土)18時29分6秒
編集済
ブログ「曹洞宗にもの申す」にコメントがありました。
本当でしょうか?
Unknown (sujata)
2009-10-24 22:17:36
永平寺へ安居させてもらいましたが酷いものです
暴力
いじめ
酒(宴会)
街へ女を買いに行く雲水
檀家さん方が抱いてる修行僧とのギャップがあまりにも大きく燦燦たる思いです
総持寺も同じような状況だとのこと
安居教育は根本的に見直す必要があると思われます
修行僧(寺院子弟)の人間的な基礎体力が余りにも低すぎる
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