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事情によりしばらく書き込みをできなくなりますが、その前に一つだけ。
別に噛みつくわけではありませんが、大閑道人師が書いた
>>「安居歴」と声高に言ったところで、せいぜいが数年ほどの、しかも、どこか一つだけ。それがどれほどの価値があろうか?
だけは納得いきません。
師が、永平寺での修行が短かったことは、ご自身で納得の上で決めたことなのであれば
それは自己完結の範囲であればそれで結構ですが、どうして他人の価値にまで余計なことを
言うのでしょう。その余計な一文で、ただ単に安居歴の短い人が、長い人をうらやんでいるというか、ねたんでいるというか、ひがんでいるように思えてしまう一文です。
そういう意図はなくても、そう受け取れてしまいます。
道元禅師は、安居の大切さを説いています。
もちろん、道場に掛搭するだけが修行ではなく、日常でも安居となりうるわけですが、
それを決めるのは自分の心のもちようでしょう。
だったら、自分が短かろうが長かろうが、それは自分自身の問題であり、人の安居の長短をとやかく言うべきではないと思います。
師の一連の文章は、その余計な部分があるがために、ただ単に自分の安居歴のコンプレックスをさらけ出して弁解しているだけに聞こえてしまいます。
修行が長いからといって、威張る人や自慢する人は論外ですが、修行が長いのが意味がないかのような言い方や、修行が長い方に道心がないかのような、極端な例を挙げるのはおかしいと思います。葬儀にリベートだの、法事をしない布教師だの、そんな具体性のないあやふやな例を挙げて宗門を貶めるのはいい加減にして欲しいです。
修行も長く、立派な方もたくさんおられますよ。
どうしてこの掲示板に集う方々は、人の良いところを見ないでごく一部の悪い例ばかりを取り上げてそれがまるでたくさんいるかのような書き方をするのでしょうか?
不謗三宝戒に反すると思いますよ。
ましてや「本題」に戻す、などという言葉遣いは安居の問題と他の問題に差をつけている意識が見え隠れします。改革に、本題も余題も無いと思うのですが。
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