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普遍的とは、時間的にも空間的にも制約がない、ということ。
そして、真理であるかどうかは、普遍的であるかどうか、が判定基準。
お山でしか通用しないのであれば、それは普遍的ではないから、真理ではない。
淨土宗であれ真宗であれ日蓮宗であれ真言宗であれ、
もちろん、曹洞宗であれ、どんな宗派にも通底しているものが仏教の真理だ。
曹洞宗にあって淨土宗にないものは、いわば、曹洞宗という地方ルールみたいなもの。
お山のルールも、一つの地方ルールに過ぎない。けっして真理ではない。
私はそう嘯いて安居した。とはいうものの、
「安居歴」はたかだか、永平寺の夏制中のみ。
あまたある地方僧堂のどこかにも、もちろん、總持寺にも、
そして、黄檗にも臨濟にも安居したことはない。
真言宗の修行も、天台宗のそれもない。
(※ 宗門には、臨濟や黄檗での安居歴をお持ちの方もいる。
もちろん、それは宗門では安居歴とはみなされない。
それはそれで、宗門としては正しいのだが、
仏道修行として見た場合、正しいかどうか、それは別問題)
私自身の安居の目的は、資格ではなかった。
永平寺が普遍的かどうか、それを知りたかった。
私が知りたかったものは、安居しなければわからなかった。
安居しなくても知りうることは、安居しなくても知りうる。
だから、普遍的なことは、永平寺でなくても知りうる。成しうる。
永平寺は、問題が極端な形で炙り出されるところだから、
個別を考えることで普遍へと辿り着くこともありうる。
これが永平寺が私に教えてくれたこと。
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