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暴力問題の捉え方(転載)

 投稿者:地の声  投稿日:2009年11月 5日(木)11時54分53秒
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  僧堂に於ける暴力問題

「もの申す」で最近ホットなのが、暴力問題である。特に、以下の投稿は、この問題の根深さを明らかにした。

安居と修行
投稿者:田舎の若輩僧 投稿日:2009年11月 2日(月)23時01分45秒

ここ数日掲示板がエキサイトしていて投稿できなかったのですが、本山における修行僧のあり方のお話が出てきたので一言申したいと思います。爆弾発言かもしれませんがあくまで個人としての意見です。
修行中のいじめ問題や暴力問題は全く持って言語道断ですが、私自身本山において一般の方や匿名一地方副住職師や千代川師の言われるような間接的いじめに当たるのでしょうが、同安居同志における意見の相違や性格の不一致によるものでした。しかし、その方と違う寮舎になったらそのような行動はなくなりましたしその後も話が出来るようになりました。
私が今言いたいのは、皆様方がここで言われるいじめ特に間接的ないじめは修行の一部ではないでしょうか?いじめを擁護するわけではありません。私自身その方加者や役寮・維那老師後堂老師等のお陰で自分自身の見えないところを見つめることが出来ましたし、また一段と修行というものが楽しく感じられます。また出来るものなら本山に上がりたいものです。その事柄がなければ、私自身自分勝手なままで何の修行か解らないまま今に至るでしょう。
また、いじめを受けた者またいじめを行ったもの互いに心に得るものがあるはずです。これはいじめを擁護するということではありません。その行為が起きてしまったらということです。
皆様の言われるように現代社会において大学を出て甘い光を味わっていた若者が右も左もわからない中で急には変われないと思います。本山において一日一日修行して他己とのかかわりの中に色々な衝突や合致があって初めて自分を見つめられるのではないでしょうか。
あくまで個人の意見で暴力やいじめ等を擁護したり認めるわけではありません。
私自身が受けた行為も他人から見ればいじめではととらわれるかもしれませんが、全く持っていじめではなく自己を他己によって見つめることが出来た最大の修行です。
もしここで皆さんが問題提起していることが起きているのなら、加者も被者も自己によって他己を見つめ合う修行として乗り越えていくのも一つの修行ではないでしょうか?
私自身そのお陰で檀信徒からのいじめ等も乗り越えられています。
最後に本山において学校社会と同じ事が起きているのでしょうか?
本山と一般社会と同じにしていいのでしょうか?
先日、千代川師に宗門は特別な社会なのかとご返答いただいたのでまたご指摘を受けるかもしれませんが、各寺院は一般社会の中の一法人であることは私自身も心得ています。
しかし、本山も同じ一般社会なのでしょうか?経営においてはそうかもしれませんが、中身を教育として扱うと学校教育と同じ現象が起きてしまうのではないでしょうか?
もっと個々の出家者としての自覚や各力を向上していかなければ将来の曹洞宗の僧侶が不安です。
長々と個人の意見を述べ申し訳ございません。
あくまで一個人の意見です。いじめや暴力を擁護しているわけではありません。
合掌                         九拝


暴力は差別と良く似ている。行為者側に暴力の認識があるかどうかが問題なのではなく、被害者側に暴力を受けた認識があるかどうかが大切なのである。つまり、被害者=弱者の側に立たなければ暴力は見えてこないし、また同様の理由で差別も見えない。そして暴力が見えたとき、

「差別問題とは、被差別当事者の問題というよりは、差別する側の問題であり、同和問題は部落外の問題、女性問題は男性問題、障害者問題は健常者問題、在日外国人問題は日本人の問題、子どもも問題は大人の問題であるという視点が大切である。差別による被害者は、直接の被差別当事者だけでなく、差別する人や差別を容認する人もまた人間的可能性をそこね、広い視野で考えれば自らの幸福追求をゆがめられ、結果的には自らの人権をないがしろにすることにつながっているという意味で、被害者である。差別や抑圧を受けてきた人々の人権を守ることが、自分も含めたすべての人々の人権を守ることである。」(大阪府豊中市『人権啓発基本方針』から)

という視点が大切になる。

僧堂暴力否定派が必ず口にするのが、「暴力はない」或いはこの投稿者のように「暴力ではない」という論点だ。前者は論外だが、特にこの投稿者の意見は注意が必要である。「いじめや暴力を擁護しているわけではありません」と何度も断っておきながら、実は、暴力は僧堂の修行のひとつであると、自分の経験を通じて暴力を肯定していることに気付かない。

「いじめを受けた者またいじめを行ったもの互いに心に得るものがあるはずです」
「加者も被者も自己によって他己を見つめ合う修行として乗り越えていくのも一つの修行ではないでしょうか?」
さらに、
「私自身そのお陰で檀信徒からのいじめ等も乗り越えられています。」
と、「打たれ強くなった」ことを感謝するほどだ。暴力をふるう側も受ける側も修行という言葉でくくられてしまうと、これは暴力擁護以外の何物でもない。安心して暴力をふるい、「これも修行だ」と言えばいいのだからたまったものではない。

先の豊中の『人権啓発基本方針』を再度じっくり読んでもらいたい。ここで言う「差別」を「暴力」と読み替えたとき、問題の本質と解決が語られていることが分かるだろう。差別を受けたものは試練だから差別に感謝し、暴力を受けたものは修行だから暴力に感謝するという、ゆがんだ結論を導き出してはならない。

私は「もの申す」に、「いつ、だれが、どこで、どんな」暴力行為をおこなったかを記録し、告訴すべきであると書いた。是非立ち上がってもらいたい。そして僧堂に於ける暴力を日向に出してもらいたい。僧堂はもの言えぬ人間を製造する場ではない。仏教者の信念を築く場である。仏教はそもそも暴力を否定する宗教ではなかったのか。お釈迦さまが必要があれば暴力をふるってもいい、と言った話など聞いたことがない。しかし‥曹洞宗では、実は暴力は長い間容認されてきた。これを私は「禅の暴力主義」と指摘してきた。戦時下では敵を殺すことが救いを与えることであると、まるでカルトと同じことをやってきたのである。忘れるには早すぎる。

話が逸れたが、こう考えると「人権」と「平和」は密接につながっていることが分かる。暴力を否定することは人権を守ることである。暴力を否定することは平和を実現することである。まして「人権・平和・環境」を標榜し、「人権研修」を頻繁に行っている曹洞宗である。仏教者を育成する僧堂に於いて、いかなる暴力も一掃されなければならないのである。さもなくば、田舎若輩僧を多数生産しつづけることになる。彼は、現在の僧堂がつくりだした宗侶なのである。昔の話ではない。宗門改革は形を変えたり規則を変えたりすることだけでは達成されない。曹洞宗の本質にせまらなければ改革は成立しない。その意味でも、僧堂から暴力を排除することに真剣に取り組まれなければならない。


No.1122 2009/11/03(Tue) 07:56:53

http://www2.rocketbbs.com/625/chinokoe.html

 
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