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安居の問題について

 投稿者:千代川宗圓  投稿日:2009年11月 2日(月)16時50分26秒
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  安居の問題について

「暴力、いじめ、酒(宴会)や街へ女を買いに行く雲水……」、これは、永平寺に安居した方から10月24日にブログに投稿されたものです。

 これらの行為は、本山でも各地の専門僧堂でも宗務庁でも認めておりませんし、特に人権を重大テーマとしている宗門において許されるべき問題ではありません。
 しかし、現実にはこのような事はあると思いますし、実例も存在しており、多くの宗門人はこれらの現実をご存知であると思います。

 永平寺での修行は厳しく、そして高尚なものとしてNHKテレビなどで特集が組まれたりしており、一般の方々は「厳格で素晴らしい」などと理解されております。多くの方々のイメージとして修行は美しく映っております。

 それでは何故、学校を卒業した寺院の子弟の中には修行のために安居をする事を「懲役」と称して嫌がる者がいるのでしょうか? まさしく「懲役」という隠語が物語っています。
「暴力やいじめ」を認める者も組織もありませんし、修行中に飲酒や買春行為を行うなど論外な行為であります。
 しかし、「宗門人でこんな行為は100%ない」、と断言できる方は居るのでしょうか?

 暴力行為は古参の修行僧から新人の修行僧に対し行われると聞きます。
 これは古参自ら直接的な暴力行為を行うのではなく、「陰湿ないじめ」による間接的な暴力であり、本山や僧堂において伝統的に行われているものではないでしょうか? ほかにも、精神的暴力というべきパワハラもあるようです。
 たとえば、お経が上手に読めない、法衣の着方や作法が覚えられない、法堂作法が上手にできない等々から始まり、言葉の使い方や口の利き方から食事作法に至るまで細々とした物事に欠点を見出し、それらを「口実」として、“指導”という美名のもとに、現実には暴力が行われているのではないでしょうか?

 教育される側も指導者の人格や個性を見抜く力量もある訳だし、それが本当に教育や指導であるなら受け入れられると思います。それなのに、なぜ受け入れられないのか。

 過去に、このような例がありました。
 古参と新人の間に、物事や修行に対する価値観の違い等があり口論となりました。古参は論理的に新人に敗れた。翌日から古参グループはその新人に対し、反省を促すという目的で正座や座禅を長時間させるという行為に出たのです。
 その新人は身体的障害が生じてしまった。間接的ではありますが、暴力に違いはありません。
 又、古参のいじめから新人は恐怖と肉体的苦痛から精神障害を患う者まで出ています。

 以上はほんの数例に過ぎませんが、理不尽とも思える修行から逃げ出す雲水も多くいるように思われます。
 修行という美名のもとに人間として行ってはならない事をしている。そしてその新人も、一定期間を乗り越えた者たちはサディスティックなまでに同じ仏道修行を求める者に対して「いじめ行為」を日常的に行っている。このようなケースが全てであるとは思いませんが、「愛語」という精神はどこに存在するのでしょう?
 新人は、本当を修行をしたいのに、直接あるいは間接の暴力によって、修行をさせなくしているです。

 今の安居制度の大きな問題は、「教師資格」の取得に必要な制度として機能していると言ってもいいでしょう。
 修行本来の目的はこんな事ではないはずである。宗門には、このような形式主義が横行しています。
 本山や僧堂において本来の仏道、本来の僧侶としての道を教育しているのかと疑問を持ちます。これらの事は「宗門のタブー」なのかも知れません。
 しかしこのタブーに関しても討議なされる時代が到来したともいえるでしょう。

 古参の修行僧に聞くと、自分達が新人の頃は古参に同様に扱われたと言います。だからといって、暴力を認める理由にはなりません。それが伝統のように思われている現実に私は残念であると思う。このような事を修行と道元様は教えてはいません。
 さらにいえば、修行本来の姿に改善できない役寮を始めとする指導者にも問題があります。

 現代の若者論を述べている方々もいるが、生活様式が変化した21世紀に正座が出来ないから基礎体力の低下などと言う事はいかがなものでしょうか? いじめに耐えられるのが、「基礎体力」などと考える宗門人は、よもやいないでしょう。
 各寺院でも洋風の生活になっているのです。

 修行とは人間教育や精神教育の場であって欲しいし、社会に役立つ宗侶を育成する場であってもらいたいと思います。そして立派に布教できる人材を育成して欲しい。
 教師資格についても、それは一生ものであってはならない。なぜなら安居生活を終えても、その後に僧侶として相応しくない行動を行っている者もいるではないでしょうか?
 今や一般社会でも永久資格であった教員、医師、弁護士の「資格」についても、その制度の有り方について検討が始まっています。

 世間の一般の方々は、修行を終えて来た僧侶をある意味で尊敬し、その布教に期待している方々が多いと思えるが、本当に人間性や僧侶として教育されて帰ったのか?
 法堂作法やお経の読み方等々の形は出来上がっても、人間として成長していない宗侶が多く見受けるのは私だけではないと思います。
 又、修行中の反動で安居終了後、その開放感から一般人には考えられない行動をする者も居ます。これが修行をした者の姿なのかと思う事もしばしばです。
 生きている間全てが修行だと、私は思うのです。

 守るべき伝統は守るべきと私は思います。しかし、改善されるべきものは改善し、時代に合った制度を宗門は確立すべきであると思います。

 合 掌
 
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