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参禅会参加者の立場

 投稿者:坐禅修行者  投稿日:2009年 6月15日(月)18時01分40秒
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  宗門の諸問題が取り上げられる時、檀家と寺院あるいは住職との関係、または寺院と宗門の関係という構図で語られることがほとんどだと思います。実際のところ参禅会の会員、毎週お寺に集まり坐禅を組んでいる一般の人たちの立場はまことに頼りないものだと思います。参禅会を開いているご住職は葬儀や法事といったご自分の仕事の合間を縫うようにして会を開き、ほとんどボランティア精神で(菩薩行として)会を運営しています。長く通っている参禅会員ほどこの事情をよく知っていて心の中では和尚に感謝しています。この問題の原点にあるのは参禅会が直接収入の増加にも檀家の獲得にも寄与していないという事実であろうと思います。また、なぜ「坐禅」なのか、というところで参禅者一人一人の意識はかなり違うようです。道元禅師を慕って参加された方もいれば、健康増進のためという方もいらっしゃいます。そうはいうものの「坐禅」というキーワードをはずしてしまったら、「布教をどうするか?」というところの根幹が揺らいでしまうのではないでしょうか。禅宗というのは在家者でも生涯をかけて取り組むことができる行を用意している数少ない宗派の一つだと思います。坐禅をしたい在家信者は今もこれからも決して多くはないかもしれません。しかし禅宗としての布教の土台骨はここにこそあるのではないでしょうか。

これは私の偏見かも知れませんが洞門と臨済を比べた時に、在家者に向けた文献を多く用意しているのは臨済の方だと感じます。また臨済の坐禅会には詫茶を経験した方々も多く参加しています。その方々は坐禅会に初めて参加した時点で坐禅とは何か、というところをすでにつかんで参加しています。このあたりが曹洞宗の坐禅会とは違うところかとも思います。

洞門と臨済、どちらが坐禅に熱心かということは一概には言えませんが、私が住んでいる区域で毎週坐禅会を開いているお寺は、臨済系が二寺、曹洞宗は0。そのため私自身は道元禅師をしたいながらも臨済宗のお寺で座禅を続けています。残念なことです。また臨在では「済洞を問わず」という白隠禅師の教えが良く生きていることも書き加えておきます。
 
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